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■「アニメ様の七転八倒」小黒祐一郎
第11回 父権と『ガンダム』
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先日、若い脚本家とロボットアニメについて話をした。だからさ、スーパーロボット系の作品だったら、父権的な方がいいと思うんだよ。「なんですか、フケンって?」昔のロボットアニメの定番のパターンだよ。ロボットが父親の象徴でさ。ロボットに乗ると父親みたいに強くなるみたいな。「お父さんくらいの強さのロボットじゃ、役立たないんじゃないですか」いや、そうじゃなくて。イメージとしての父親だよ。星一徹みたいなやつ。それは多分、主人公の自己実現とかと関係していてさ。フロイト的なアレとかもあってさ。「よくわかんないけど、父親みたいに強くなりたいなんて、古いんじゃないスか」まあ、確かにそうだけど、そもそもロボットアニメにおける巨大ロボットのイメージは、そういうところにあってね。いまだにロボットアニメってものを扱うときに、念頭においといた方がいいんじゃないか、なんて思うんだよ。「ふーん……」――とまあ、そんな感じ。
よし、ロボットアニメと父権について、ちょっと書いてみる事にしよう。正直に言うと、僕も、父権ってものはよく分からない。古くさい概念だし、そういったキーワードでアニメを語るのも、最近は流行らないみたいだ。「ロボットアニメの巨大ロボットは、父権の象徴だった」なんて話を、何度か耳にした事はあるけれど、それをまとめて解説した文章は、目にした記憶がない。それと、本当にかつてのロボットアニメが父権的だったのか? と訊かれるとちょっと困ってしまう。抽象的な話だからね。そういう見方もできるぞ、くらいの感じだろう。だけど、ロボットアニメについて考える時に「父権」というキーワードは便利なのだ。
昔も今も、日本のマンガやアニメでは、子供が大人顔負けの活躍をする物語が、人気を得ている。少年が超人的な力を得て、悪い大人やモンスターをやっつける。こういったパターンのドラマは、海外にはあまりないらしい。かなり設定をヒネっているけれど『名探偵コナン』なども、このパターンにあてはまる。そのルーツは「桃太郎」や「一寸法師」などのおとぎ話にまでさかのぼるのかもしれない。TVアニメの初期、1960年代は少年ヒーローが花盛りだった。『鉄腕アトム』『狼少年ケン』『少年忍者 風のフジ丸』『宇宙エース』『宇宙少年ソラン』『遊星少年パピィ』等々。『鉄人28号』の正太郎だって、少年ヒーローだ。
1970年代になると『マジンガーZ』を皮切りに、巨大ロボットアニメが次々と作られるようになる。今回の話題の論旨で言うと、70年代に作られた巨大ロボットアニメの多くが父権的だった。少なくとも設定的にはそうだ。70年代の巨大ロボットは、父親的な存在から主人公に与えられる事が多かった。『マジンガーZ』がその典型だ。科学者の兜十蔵は、孫の兜甲児にマジンガーを託して、この世を去る。『UFOロボ グレンダイザー』のグレンダイザーは、デューク・フリードの母星の守護神だ。『ゲッターロボ』『超電磁ロボ コン・バトラーV』では、ヒロインの父親がロボットを建造し、主人公達を操縦者として選ぶ。これなどは入り婿の構図だ。自分の子供が女の子だったので、お父さんが、その代わりに主人公の男の子をパイロットに選ぶというかたちだ(今だったら、そのまま女の子がパイロットになるところだが)。
父権とは何だろうか。辞書を引くと、「父が家長として持つ支配権。家父権」とある。家族内で父親や夫の権威が絶大である場合に使う言葉であるようだ。やはり古い価値観に基づいた概念なのだろう。父親が持つ強い力が(そもそも、その強い父親のイメージが幻想なのかもしれないが)かたちになったのが、主人公が乗り込む巨大ロボットであると考えてみよう。主人公はロボットのパイロットになる事で、父権的な力を手に入れる。勿論、この場合の父権的な力というのは、本当の父親の力である必要はない。旧来的な意味での、男性的な力くらいまで、広く解釈してよいのだろう。
超人的な力を得て、大暴れするのは、少年にとって興奮するシチュエーションだ。強くて悪いやつを、ビームやロケットパンチでやっつける。あるいは自らが弾丸となって、敵の体を貫く。ロボットに乗り込む事は、自分がそれと一体化する事でもあった。ロボットを操縦する事で自分自身が強くなる。ロボットという機械を使って、誰よりも強くなりたいという願望を満たす。それがロボットアニメの快楽だった。1960年代に少年ヒーローのかたちで描かれてた、少年が大人顔負けの活躍をする物語を、過剰なものにしたのが1970年代のロボットアニメだった。そういったドラマを成立させるために、「父権の譲与」のイメージが有効だったのだろう。
ロボットアニメではないが、『宇宙戦艦ヤマト』も、やはり父権的な物語であった。老いているとはいえ、歴戦の勇士である沖田十三は、正しく父権的なキャラクターであり、その力の象徴がヤマトである。いや、ヤマトの象徴が沖田だったのかもしれない。血気盛んだが、若いために人間が練れていない古代進が戦闘班長となり、沖田をアシストする。やがて長い航海の途中で、沖田は病に倒れ、古代が艦長代理を命じられる。その時点で、父権が古代の手に移ったわけだ。最も父権的だったアニメが『宇宙戦艦ヤマト』だったのかもしれない。
以下が本題。父権とロボットを切り離そうとしたのが、富野喜幸(現・由悠季)監督だった。『機動戦士 ガンダム』の直前に作ったのが、家族で闘う『無敵超人 ザンボット3』であり、最終的に主人公が父親に闘いを挑む『無敵鋼人 ダイターン3』であるのも興味深い。
『ガンダム』も最初は、それまでのロボットアニメのパターンをトレースしているふりをしている。あくまで「ふり」である。ガンダム建造の責任者は、主人公アムロ・レイの父親であるテム・レイだ。テム・レイは1話において、戦闘に巻き込まれてアムロ達の前から姿を消しており、表向き、アムロは父親が遺したガンダムに乗って、その意思や力を受け継いで闘っているようにも見える。シャアやランバ・ラルといった、手強い敵が彼の前に現れる。天才的なパイロットであるシャアも、いかにも父権的に振る舞うランバ・ラルも、アムロの自己実現を阻害する存在であり、そういったライバルに勝つ事で成長していくのだろう、と思われた。少なくとも僕はそう思っていた。ところがアムロは、父権が相応しい一人前の男になるのではなく、ニュータイプになってしまった。実はこのテーマのズラし込みが、『ガンダム』が成功した理由のひとつだと思うのだが、それは次回以降に書く。
『ガンダム』が本格的にニュータイプの物語となるのは、サイド6におけるアムロとララァとの出逢いからだが、その直前に、テム・レイが再登場しているのに注目したい。アムロの前に現れたテム・レイは酸素欠乏症のため、精神に障害を起こしており、彼を失望させる。アムロの中に「ガンダム=父権」の構図があったのかどうかは分からない。だが、物語を俯瞰して見れば、テム・レイの再登場とともに「ガンダム=父権」でなくなってしまった。いや、むしろ最初から「ガンダム=父権」などではなく、それを視聴者に確認させたのが、テム・レイの再登場だったのかもしれない。その直後に、アムロはララァと出逢い、『機動戦士 ガンダム』は、アムロが戦士として成長する物語から、ニュータイプのドラマへと切り替わる。
富野監督も『ガンダム』以降も、父権的でないロボットを描き続けた。『伝説巨神 イデオン』のイデオンは異星で発掘されたものであるし、主人公達に力を与えるよりも、むしろ翻弄する存在だった。『戦闘メカ ザブングル』のウォーカーマシンは、支配階級であるイノセンスからもらったものだ。後の『ガンダム』シリーズを観ても、Zガンダムやνガンダムは、それぞれ搭乗するカミーユやアムロが自ら設計したものだし、F91とVガンダムは主人公の母親が設計したモビルスーツだ(『Vガンダム』にはそのものズバリ「母のガンダム」というサブタイトルがある)。その後も富野監督は『ブレンパワード』や『∀ガンダム』で父権的でないロボットの出自を設定している。富野監督が、どのように考えてそのようにロボットを描いてるのかは分からない。ただ、意識しないでやっているとは思えない。父権についてコメントしたわけではないが、『Vガンダム』でガンダムに乗るのが女性と子供だけなのは「現代の男と女の関係を反映させているからだ」と、監督は取材で語っていた。
必ずしも『ガンダム』がきっかけだったというわけでもないのだろうが、『ガンダム』の後、ロボットアニメは次第に父権的でなくなっていった。80年代後半から、可愛らしいSDロボットが流行ったのも象徴的だし、『魔神英雄伝 ワタル』や勇者シリーズのような、主人公の友達のようなロボットも増えていった。その流れが、後の『遊☆戯☆王 デュエルモンスターズ』や『ポケットモンスター』に代表される「後方支援ヒーローもの」につながっていく。
父権的でなくなったのは、世間一般でそういったものが流行らなくなっていったからだろう。今では、強くて頼りになる父親なんて、ファンタジーとしても成立しづらい。視聴者にしても、力強い男性像への憧れが弱くなってきているだろう。この話題については、ロボットアニメの枠内だけでは考えづらい。父権の塊のようなキャラクターが活躍する『北斗の拳』が、どこかパロディ的な匂いがした(主人公が強い事を、劇中で笑いにしていた)事や、80年代後半からの女性ヒーローものの流行などと、併せて考えるべきだろう。
『新世紀 エヴァンゲリオン』は、富野監督がやった「アンチ父権的なロボットアニメ」を引き継ぎ、完成させた作品だった。アンチではあるが、父権が問題になる作品ではあったと思う。第壱話で碇シンジの前にEVA初号機の頭部があり、その上に碇ゲンドウが立つという構図がある。そのカットを観て、僕は「ああ、テーマを分かりやすく示しているな」と思った。父権たる碇ゲンドウから、シンジに与えられる初号機。そして、初号機に乗る事でシンジは活躍をし、同時にその事で苦悩する。ところが話が進むにつれてEVAが、父権の象徴でない事が分かっていく。初号機の中には、碇シンジの母親であるユイの魂が入っているらしい。弐号機にもアスカの母親の魂が入っているようだ。最後の最後で、ゲンドウも父権的な強い男性でない事が判明する。『エヴァンゲリオン』も『ガンダム』と同様に、最初に父権的なロボットアニメの「ふり」をしていたのだ。
たとえ、F91とVガンダムを主人公の母親が設計したとしても、やはりガンダムはガンダム。ミサイルを放ったりビームを撃ったりと、やる事は男性的だ。EVA初号機も最初は飛び道具などを使って戦闘をしていたが、やがて、女性的なイメージの、他者を包み込んで飲み込む存在としての性格が強くなっていく。シンジを内部に飲み込んで溶かしてしまい、使徒を喰らう。最後には女性そのものの巨大綾波レイが地球を呑み込み、初号機はレイと合体する。
もうひとつ面白いのが、今川泰宏監督の作品における、父とロボットの関係だ。『ジャイアント・ロボ』と『鉄人28号』では、ロボットは正しく父親の象徴である。ただ、主人公はロボットを得て大活躍するのではなく、むしろ、それを手に入れた事で悩む事になる。『機動武闘伝 Gガンダム』はもっと複雑だ。東方不敗をはじめ、主人公のドモンにとっての父親的な人物や、兄的な人物が何人も登場する。かつてのスーパーロボットものとは現れ方が逆とは言え、近年、父権としてのロボットと唯一、格闘しているのが今川監督であるのは間違いない。
(2005/04/14)
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