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■「アニメ様の七転八倒」小黒祐一郎
第14回 懐かしの『空飛ぶゆうれい船』(前編)
〜社会派アニメとボアジュース〜
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生まれて初めて劇場で観たアニメ映画は『空飛ぶゆうれい船』だと思う。1969年夏の作品だが、僕が住んでいるあたりでは、半年遅れくらいで(下手すると1年遅れで)映画が公開されていたようだから、観たのはその年ではなかったのかもしれない。先行して作られた劇場版『サイボーグ009 怪獣戦争』も、小さい頃に観た記憶があるのだが、それは劇場で観たのかどうか分からない。
1969年に観たとして、当時の僕は5歳。その年齢でも個々のシーンをはっきりと覚えているくらい『ゆうれい船』の印象は鮮烈だった。冒頭のスリラータッチのシーンは恐かったし、幽霊船も迫力があった。ハヤトの冒険にはワクワクしたし、ボアジュースのCMも楽しかった。そして、何よりもラストのヨットのシーン。これにはうっとりした。今思えば、『ゆうれい船』で描かれた世界に、他のアニメ作品にはなかったリアリティが感じられたのだろう。TV局や街に巨大なカニが登場するところなども、迫真のシーンだった。
東映動画が、劇場作品をA作、B作に分けた後の作品で『ゆうれい船』はB作。60分の中編である。原作は『サイボーグ009』と同じ、石森章太郎。同時上映は特撮映画「飛び出す冒険映画 赤影」(3D映画で、劇中で主人公の赤影が、観客に立体メガネをかけるタイミングを告げるところだけ覚えている)、TV作品の『ひみつのアッコちゃん』『もーれつア太郎』。当時はTVで放映したものを、そのまま劇場にかけていたのだ。監督は池田宏。脚本は辻真先、作画監督は小田部羊一、美術は土田勇。作画については次回触れるが、宮崎駿もアニメーターとして参加し、素晴らしい仕事を残している。
この映画は、怪奇調で始まる。「近頃、このような深い霧の夜になると、きまって船の沈没事故が世界各地で起きている。そして、事故にあった船の乗組員たちは、みんな、口を揃えて、その原因は突然現れた幽霊船だったと語っている」とナレーション。奇怪な音楽。霧の中から現れる幽霊船。オープニングはたっぷりと幽霊船の船体を見せる。人のいない甲板にドクロが置かれており、それが急に動いた! と思ったら、中に、カニが入っていただけだった。そんな脅しのテクニックも巧い。
オープニングの後に、主人公のハヤト少年と、その両親の嵐山夫妻が登場。ハヤト達は、自動車で事故を起こした黒汐会長とその夫人を助ける。黒汐会長はいくつもの会社を持っている男だ。雨が降ってきたので、ハヤト達は黒汐会長と夫人を岬の幽霊屋敷へと連れ込むが、屋敷に幽霊船の幽霊船長が出現。幽霊船長は、黒汐会長に恨みの言葉を残して消え去る。
翌日か数日後、嵐山とハヤトは、車で家に帰ろうとしていた。だが、道が渋滞で車が動かない。そこに国防軍の戦車が出現。民間人の自動車を踏みつぶしながら(!!)進んで、前方に発砲。戦車が攻撃した方向から現れる巨大ロボット、ゴーレム(ビルとビルの間から姿を見せる、ゴーレムの巨大感を見よ!)。幽霊船の使いと名乗るゴーレムは、国防軍を圧倒する。その戦いに巻き込まれて嵐山は傷つき、ハヤトが帰り着くと、自宅も崩れ落ちていた。病院で母は亡くなり、続いて嵐山も息を引き取る。嵐山は死ぬ前に、自分達が本当の親ではない事を、ハヤトに告げる。
ハヤトは黒汐会長の屋敷を訪れて、親の仇をとるために、幽霊船やゴーレムと戦いたいと言う。その日も、ゴーレムが工場地帯に現れて暴れていた。そして、東京湾に幽霊船が出現。幽霊船は空を飛び、ミサイルやレーザー砲で攻撃して、ゴーレムを撃退する。幽霊船とゴーレムは仲間ではなかったのか?
ハヤトは黒汐の屋敷の地下で、巨大な兵器工場を発見。工場では国防軍の戦車や戦闘機を作っており、しかも、そこはゴーレムの秘密基地でもあったのだ。ハヤトは、黒汐達の会議を盗み聞きして、彼が国防軍とゴーレムの両方を操っていた事を知る。ゴーレムを暴れさせる事で、国の軍備予算を増強させ、自分達が作った兵器を売りつけようとしていたのだ。また、破壊された都市の復興計画にも食い込み、自分の建設会社を潤わせようとしていた。さらに、黒汐達を操るボアという謎の存在がいる事も分かる。それを知ったハヤトは、黒汐達の秘密を世間に知らせようとするが、誰も信じてくれない。
と、ここまでが映画の前半部分。怪奇調で始まり、ゴーレムの登場から一転して、怪獣映画的なスケール感のメカアクションものとなり、義理の両親の死というショッキングな出来事を経て、今度は社会の裏に隠された大人達の秘密が明らかになる。スピーディかつ盛りだくさんで、観客をあきさせない展開だ(『ゆうれい船』を未見で、ここまで読んで興味を持った人は、以下を読まないで、先にビデオかDVDで本編を観よう!)。
『ゆうれい船』は語るべきポイントの多い作品だが、その中でも際立っているのが、ボアジュースの存在だ。それはボアが日本に輸出している清涼飲料である。国内では黒汐物産が販売しており、1000本飲んで、ジュースのフタの王冠を送ると、抽選で海底旅行へ招待するというキャンペーンが展開されている。ハヤトも友達と競うように飲んでおり、劇中で何度かボアジュースのCMが挿入される。それは、トリスのCMのようなグラフィックなアニメーションで、テーマソング(劇中では、テーマソングと呼べるほどの長さは使われていないが)も陽気。シリアスな物語の中で、よいアクセントになっていた。黒汐会長は、ボアからゴーレムを建造する支援を受けており、その見返りとしてジュースを売っていたようだ。黒汐はTV局や新聞社も持っており、それはボアジュースの売り込みや、情報操作に使われていた。そして、ボアジュースは、飲み過ぎると身体が溶けてしまう恐ろしいものであった事が映画後半で判明する。
『ゆうれい船』は大好きな映画であったが、子供の頃からいくつか気になるところがあった。そのひとつがボアジュースの存在であり、後述するボアの正体であった。子供だから「この映画におけるボアジュースの意味は何なんだろう」とまで考えはしなかったが不思議な存在感があり、そのために、単に面白くて刺激があるだけでなく、ちょっと変わったところのある映画だと思っていた。
「東映動画 長編アニメ大全集」(徳間書店)の下巻に、池田監督のインタビューが掲載されている。ボアジュースは「現実を無批判に受け入れている少年達の生活を象徴するもの」である。また別の文脈で、この作品における批判精神は「現代資本主義体制のあり方そのものをストレートに突いて」おり、その象徴がボアジュースであったと語られている。「東映動画 長編アニメ大全集」が発売されたのが1978年。当時の僕は中学生だった。その記事で、目から鱗が落ちた。疑問が全て氷解した。物語の構成に意味があった事が分かったし、そういった事をアニメーションが扱っているという事実にも感心した。
若い人は「現代資本主義体制の……」なんて言われても、ピンとこないだろう。マスコミを使った情報操作なんて、今では当たり前の事かもしれない。何しろ35年も前の問題意識だ。1982年に『ゆうれい船』のシナリオ本が、朝日ソノラマから文庫のかたちで発売された。この本でも巻末に池田監督のコメントが掲載されている。制作当時にコーラの販売戦争が激化して、色々な景品がつけられるようになっていた。あるいは某食品メーカーのスナックが買い占められ、スナック自体はゴミ箱に捨てられていた。そういった社会現象を背景に作られたと、池田監督は語っている。「仮面ライダースナック」の大ヒットがちょっとした社会問題になったのは、『ゆうれい船』公開後の事だが、池田監督の言う「スナックが買い占められ」とはライダースナックの事だろう。僕もカード欲しさにスナックを買った世代だ(以下は余談。最近、増村保造監督の「巨人と玩具」という映画を観た。1958年の作品で、マスコミや豪華な景品を使った製菓会社の販売合戦をシニカルに描いたものだ。ちなみにボアジュースの景品が「海底旅行」なら、「巨人と玩具」におけるキャラメルの景品は「宇宙服」。『ゆうれい船』のスタッフが「巨人と玩具」の影響を受けたかどうかは分からないが、似た問題意識で作られたのは間違いないだろう。そういった事が問題とされる時代があったんだよな、という事を再確認した)。
現代資本主義体制云々は置いておいても、企業や国、あるいはマスコミなどの社会のシステムを問題にした作品であるのは間違いない。僕達が知らないところで、誰かが世の中を操っているのかもしれない。『空飛ぶゆうれい船』はそういったテーマを強く押し出した社会派アニメなのである。「東映動画 長編アニメ大全集」でも、シナリオ本でも話題になっているが、『ゆうれい船』が初めてTV放映された時に、何の間違いか、某清涼飲料メーカーがスポンサーになってしまった。関係者から、ボアジュースの件をカットするように指示が出たが、池田監督はそれを受ける事ができず、クレジットから自分の名前を外させて、編集を別の人に任せたのだそうだ。
映画の後半でハヤトは幽霊船に助けられ、幽霊船長と対面。様々な謎が解明される。幽霊船長こそがハヤトの本当の父親であり、彼は黒汐に復讐するために幽霊船を建造していたのだ。そして、クライマックス。ハヤトはボアを倒すために、幽霊船でその本拠地である海底基地へと乗り込んでいく。
オチをバラしてしまうと、海底深くに潜んでいたボアの正体とは、巨大な一個の貝であった。幽霊船の攻撃を受けた海底基地から巨大な貝が現れて、絶命するのだ。えー、なんで? どうして貝なんだ? あれは怪獣かなにかなのか? 最初に観た時も、それを疑問に思った。「東映動画 長編アニメ大全集」の記事を読めば、ボアの正体についても合点がいく。池田さん自身も語っているが、巨大な貝は、抽象的な存在なのだ。まあ、なぜそれが貝だったのかはよく分からないが、むしろ、意識や人格を持たない存在であった事が大切なのだろう(貝を選んだ理由については、シナリオ本で池田さん自身が触れてる。興味がある人は古本屋で探してほしい)。
『ゆうれい船』はドラマ的にも表現的にも、基本的にリアリズムで作られている。ところが、ボアの正体とそれに関連した部分のみが、漠然としたものだ。クライマックスまでリアリズムで話が進み、最後の最後で、この世の本当の悪は、とらえどころない存在だという事が分かる構成になっている。そういう意味では「ボアの正体ってなんだかよく分からない」と思った、僕の子供の頃の感想は、それほど見当外れではなかったのだろう。
ボアの正体については、もうひとつ仕掛けがある。ハヤトにボアの説明をする時に、幽霊船長は以下のように言ってる。「こいつ(ボア)を育て上げたやつらが、どこかにきっといる。そいつをやっつけなければ、なんにもならんのだよ」。その後、ハヤトは、自分のポケットに入っていたボアジュースの王冠を見て、ある事に気がつく。自分達が競い合ってボアジュースを飲む事で、ボアが育つのを助けてきたんだ。ひとりひとりが王冠を放り出さなくては、ボアみたいなやつはなくならない。ハヤトはそう言う。
ここでハヤトが言っている事の意味は、初見だと、まず分からないだろう。ボアは正体の分からぬ相手であり、それが企業やマスコミといった社会のシステムを利用して、人々を苦しめている。だが、そういったシステムを作っているのは人間である。ボアが社会のシステムのマイナス面を象徴するものであるならば、それを生み、育て上げたのは、ボアによって苦しめられる事になる人間自身なのだ。だから、企業やマスコミ、あるいは国や警察ですら、盲目的に信じてはいけない。子供ですら、ジュースを飲むという事で、その怪物を育てる事に荷担しているかもしれないのだ。繰り返して言うが、35年も前の問題意識によって描かれた作品である。現在の僕達の感覚とズレがあるのは仕方ないだろう。
勿論、そういったテーマ性は、物語の背景にあるもので、分からなくてもこの映画は十分に楽しめる。「ボアを育て上げたやつら」にしても、観客に対して謎かけをしているだけで、具体的な事は言っていない。観ている子供に対して、世の中には怪獣やロボットより恐い存在がいるらしいと提示できれば、製作者の意図としては成功だろうし、それは達成されている。
大人になった僕が、今の目でそのあたりを観るとどうだろう? テーマの部分に関しては、あまりに生硬な映画である。だが、そういった真っ直ぐさが、ハードなSF映画としての魅力とマッチしていた。それもよいアジになっている。もっとも、これは僕が『ゆうれい船』の大ファンであるがゆえの、甘い評価かもしれないが。
(2005/05/12)
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