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コラム
「編集長のコラム」 小黒祐一郎

 第20回「平和の戦士は死なず」

 僕が、白黒版『サイボーグ009』(今回は、TV第1シリーズを「白黒版」と書く)に出逢ったのは、77年の暮れに発行された「マンガ少年」の増刊「TVアニメの世界」だった。いや、勿論、小学校に上がる前に、白黒版『009』をオンエアで観た事はあったのだけれど、それはあくまでカッコいいヒーローが活躍する「TVマンガ」として観ていたに過ぎなかった。作品としては観ていなかったのだ。
 「TVアニメの世界」という本については、いずれ改めて書きたいと思う。アニメに関する情報がほとんどなかった当時としては、びっくりするくらいに中身の濃い本だった。その本で、白黒版『009』は『宇宙戦艦ヤマト』や『科学忍者隊ガッチャマン』と並ぶ人気作として取り上げられ、名作と呼ばれる第2話「Xの挑戦」の脚本が採録され、なんと全話の粗筋まで掲載されていたのだ。サブタイトルを見ただけでも「悪魔は夜歩く」とか「悲劇の獣人」とか「復讐鬼」とか、面白いそうなのが並んでいた。当時、僕は中学1年だったはずだ。ほお、白黒版『009』とはそんなに凄い作品だったのかと思い、上映会で『009』を追いかけた。当時、大泉学園の東映動画(現・東映アニメーション)スタジオでは、試写室を使って定期的に上映会をやっていた。多分、僕はそこで白黒版『009』を観たのだと思う。
 いちばん感銘を受けたのが、やはり第2話「Xの挑戦」であり、衝撃を受けたのが第16話「太平洋の亡霊」、最終回である第26話「平和の戦士は死なず」だった。ちょっと定番っぽいけれど、やはり白黒版『009』で傑作を選ぶなら、この3本になるだろう。いずれも脚本・辻真先、演出・芹川有吾のコンビによる作品だ。

 「Xの挑戦」は強力なライバル、サイボーグXとの対決を軸に、サイボーグ戦士の悲哀と、別れ別れとなった恋人のドラマを描いた、いかにも『009』らしい作品だ。中学生の時には素直に感動し、なるほど、名作とはこういうものなのかと思った。
 ある夜、009達を襲った謎の戦士、サイボーグX。それはオメガ博士が、自らの復讐のためにナックという青年を改造して作ったサイボーグだった。ギルモア研究所から立ち去ったナックはハイウェイの下で、墓にバラの花を捧げる少女と出逢う。それは彼のかつての恋人、ミッチイだった。彼女はナックが交通事故で死んだものと思っていたのだ。ナックは、ミッチイに自分の姿を見せる。戦闘メカと一体になるために、彼の下半身は醜い機械となっていたのだ(ただ、実際の画面ではあまり醜く見えないのが残念)。
 オメガ博士は003を人質にとり、009がXと戦わねば東京でコバルト爆弾を爆破するとギルモア博士に迫る。Xを追って崖から落ちたミッチイは009達に保護されていたが、ナックが009と戦おうとしている事を知り、苦悩する。一方、ナックも、オメガ博士の復讐の道具として戦う事について気持ちが揺れていた。だが、彼は、ミッチイが自分の敗北を望んでいると思い込んでしまった。彼女に裏切られたと感じたナックは戦う事を決意。そして、対決の日がやってきた……。
 ちょっと理屈っぽく説明すると、サイボーグを機械として扱い、人間らしさ等は不要だと考えるオメガ博士と、心を持っている限りサイボーグは人間なのだと考える009達とのイデオロギーが対立し、その両者の間でナックの心が揺れるという図式である。ラストはやはり悲劇的なものとなり、ミッチイもナックも命を落とす。そして、「天国には、人間もサイボーグもない。ただ魂があるだけだ」というギルモア博士のセリフが、ドラマとテーマをしめくくる。これで30分だ。ドラマの密度は高く、プロットも綿密だ。白黒時代のTVアニメは話が詰まっているものが多いが、それにしても、この話の詰まり方はあまりにも凄い。
 情感に訴えかける音楽の使い方も素晴らしい。芹川演出の魅力のひとつが巧みな音楽演出なのだが、この話でも芹川節がうなりにうなっている。ビジュアル的には、ちょっとコミカルとも見える描写があり、シリアスな中でやや浮いてはいるが、それはご愛敬。アクションもののポイントもきっちりと押さえられている。オメガ博士の武器に対抗して、ギルモア博士が009のために戦闘機を開発するのだが、その戦闘機にはある仕掛けがあり(アイデアは、原作のドルフィン号からの流用である)、その仕掛けを使っての逆転勝利には正統的ヒーローもののカタルシスがあった。
 このエピソードの最大の魅力は、全体がロマンチックなムードでまとめられているという事だ。物語のあちこちにバラの花を配するという小技が、実によく効いている。ナックが研究所を襲った時に、建物は壊したがバラのアーチをかばった事から、彼が本当は優しい人間ではないかと003が考えるなんて展開は、他のアニメではなかなかお目にかかれない。ミッチイの心変わりを、ナックが「バラが枯れた……」と表現するあたりも詩的だ。

 そして、「太平洋の亡霊」は世紀の問題作。
 テーマは、ズバリ「反戦」である。
 旧日本軍の戦闘機や軍艦が次々と復活し、米軍を襲う。事件の原因がつかめぬまま、遂に原爆実験で沈められた戦艦長門がビキニ環礁から出現。長門は、強烈な放射能をまとったままサンフランシスコに向かう。長門にはいかなる攻撃も通用しない。米軍は、長門を止めるために再び原爆を落とすがそれもきかず、その放射能を10倍の強さにしただけだった。009達は一連の事件の犯人を突き止めた。それは超心理学の平博士であった。彼の息子は、第2次世界大戦の特攻隊で命を落としていた。平博士は言う。第2次世界大戦は多くの若い命を犠牲にした。そして、日本は戦争放棄を憲法によって定め、2度と軍隊を持たぬと宣言した。世界中が戦争はこりごりだと考えたはずだ。なぜならそれだけが死者を慰める方法だったからだ。だが、今や世界各国は軍備を拡張し、兵器の力を強める競争にしのぎを削っている。
 平和をもって死者に報いる事ができぬなら……。そう考えた平博士は、自分が発明したイメージを形にする装置で太平洋艦隊を復活させ、戦争への復讐を始めたのだ。
 とにかく話が凄い。テンションが高い。圧巻は平博士が上記の戦争について語るシーンだ。画面に広島の原爆ドームや原爆慰霊碑が映し出されて、さらにその上に日本国憲法第9条の文面が流される。原爆慰霊碑の上を戦闘機が通り過ぎ、そして、慰霊碑に刻まれた「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の文字と戦闘機を、カットバックで見せる演出はあまりにも強烈だ。キャラクターの言動も凄まじく、復活した長門に米軍が原爆を落とす事がわかった時に、007が、アメリカ人である002に対して「お前の国が悪いんだぞ。(原子爆弾を)持っているからって気安く使うない!」なんて言ってしまう。この話では、009達はほとんど何もできない。長門を止める事もできなければ、平博士の装置が作り出す念力のため彼に触れる事もでない。ただ、平博士は死んだ息子の幻を見て、それがきっかけとなり天に召されていく。劇中では詳しく説明されてはいないが、恐らく009の言葉を聞き、平博士の中で自分の行為に迷いが生じ、そのためにイメージを形にする装置が死んだ息子の姿を作り出したのだろう。
 上映会で「太平洋の亡霊」を観た時には本当に驚いた。テーマよりも、フィルムから発散されている異様なパワーに圧倒された。うわ〜、大変なものを観ちゃったよ、と思った。あまりに凄すぎて、何が凄いのか判断できなかったくらいだ。今観返しても、作り手の「本気さ加減」の凄さを思い知られる。これほど過激な内容であるにも関わらず、作り手には一片の迷いもない。これでもかこれでもかと力一杯の演出で描き切っている。スタッフの鬼気迫るほどの本気ぶりと、平博士の狂気がシンクロしているようにすら思えるのも素晴らしい。
 60年代〜70年代の東映動画の作品は、『009』以外にも、反戦や公害等、社会的なテーマを扱ったものがいくつかあり、その中には第2次世界大戦に関連したモチーフのエピソードも何本かある。「太平洋の亡霊」はその初期の1本であり、最高傑作だろう。

 そして、「平和の戦士は死なず」だ。
 イントロで、またもや原爆慰霊碑が登場する。009と003が広島を訪れたのだ。一緒に慰霊碑を見ていた外国人の父娘がいた。「安らかに眠ってください」「過ちは繰り返しません」と口にする父娘。だが、父親はパプリック連合国の空軍少佐ネビラであり、彼はミサイル基地の大陸間弾道核ミサイル発射係として、祖国へ帰る事になる。対立していたパプリック連合国とウラー同盟の関係は、領海侵犯事件等から一触即発の事態となった。両国は地球を数回破滅させるだけの核兵器を保有しているのだ。世界の危機に立ち上がるサイボーク戦士! さまざまな敵と戦ってきた009達の今度の敵は、サイボーグや宇宙人ではなく、人間ですらない。戦争そのものなのだ。いつか自分がボタンを押し、大勢の生命を奪う事になるのか。その事で思い悩むネビラ。009達は一連の事件の陰に、常に小さな人形が在る事を知る。009は異次元空間を通じて、宇宙ステーションに呼び寄せられる。そこで待っていたのは例の人形だった。人形は自分は人間のいるところにはどこにでもいる存在であり、そして、過去にも人間に取り憑いて戦争を起こして来たと言う。彼は広島に原爆を落とさせ、それを実行してしまった人間の愚かしさを嬉々として語る。009は人形の正体に気がつく。「わかったぞ。まだ生きてたのか。人間に潜む悪魔。あいつだ。いつかのあいつだ!」。その悪魔の人形の企みどおり、パプリックの大統領はミサイルの発射を命令。ネビラ少佐はそれを拒否するが同僚によって撃たれてしまう。009はミサイル基地に駆けつけるが、一瞬の差でボタンは押されてしまう。009は発射されたミサイルに飛びつく。そして、その軌道を変えて、自らミサイルと共に悪魔の人形のいる宇宙ステーションへと突っ込んでいくのだった……。
 このエピソードが、リアルな核戦争をモチーフにしている事にも驚いたが、当時、僕が最も衝撃を受けたのが、悪魔の人形の存在だった。人間の心の悪の部分が戦争を起こす、というのは、まあ当たり前の話だが、その抽象的な「悪」に、人形という実体を与えて登場させたわけだ。そして、009はそれと戦う。正に抽象的なドラマなのである。アニメとはこんな高度なドラマを展開する事ができるのか、と感銘を受けた。
 009が宇宙ステーションに突っ込もうとした時、人形は009に、自分を倒しても悪の根が絶える事はないが、お前はここで惨めに死んでいくだけだと言う。だが、009は自分が死んでもサイボーグの仲間がいる、地球人類50億がいると、力強く応える。そして、宇宙ステーションの爆発の後、地上に落下してくる009を救うために、002が猛スピードで救出に向かう、とドラマは展開。このあたりは随分とニュアンスが違うが、原作「地底帝国ヨミ編」クライマックスを使っている。すなわち、原作の黒い幽霊団の首領が、「平和の戦士は死なず」では人形になっているのだ。前回も書いたとおり、原作のその部分でも黒い幽霊団は人の心の悪が生んだものであり、滅ぶ事はないと語られていた。それは具体的な事はよくわからない。今の黒い幽霊団が滅んでも、別の黒い幽霊団のような組織が生まれるだろうという意味ともとれる。それに対して「平和の戦士は死なず」では、敵を本当に滅びる事のない抽象的な「悪そのもの」にした。「地底帝国ヨミ編」で描かれたテーマのひとつを取り上げて、より発展させているのだ。
 009の地上への落下は、原作が009達の死をセンチメンタルに扱っているのに対して、「平和の戦士は死なず」では、002による救出が間に合うかどうかのタイムサスペンスのドラマとなっている。勿論、ラストで009が死ぬ事はない(別のかたちで、アンハッピーエンドなオチがつくのだが、これについては書かないでおこう)。これは当時の常識として、最終回とはいえ子供向き番組で主人公を死なせるわけにはいかないという事情もあったのだろうが、あるいは、これはテーマとも関係していたのかもしれない。白黒版『009』は、主人公達を力強く戦う正義のヒーローとして描いてきた。相手が抽象的な悪であっても、009達は勇敢に立ち向かう。そして、滅びる事のない相手だからこそ、彼等が死ぬわけにはいかない。だからこそ、この話のサブタイトルは「平和の戦士は死なず」なのだろう。

 ただ、「平和の戦士は死なず」について分からなかったのが、009が悪魔の人形に言った「いつかのあいつだ!」というセリフだった。なんだ「いつか」って? 1話から最終話までの間にその存在が登場した事があったのか。
 僕が大学生になった頃、とある先輩のアニメライター氏にその疑問をぶつけた。あの「いつかのあいつ」とはなんなのですかね? 彼は言った。「それまで009は悪人と対峙した時に、敵の中に悪の心の存在を感じ取っていたんだ。それが実体になって現れたので『いつかのあいつだ!』というセリフになったんだよ」と。そうか、そうだったのか、それは凄い。と、その場では信じたが、やがてそれにも疑問がわいた。本当にそうなのか、でもそれって、ちょっとできすぎた話じゃないのか? 
 さらに10年ほど経って、脚本家の辻真先さんに取材する機会があった。その取材のテーマは別の作品についてなのだが、テープを止めた後で、辻さんに白黒版『009』について少し訊いてみた。その時、白黒版『009』は先に作られた2本の劇場版の続編の位置づけになる作品だ、という話をしてくださった(他にも色々と話してくださったのだが記憶が曖昧なので、ここに書くのはちょっと控えておく)。ああ、なるほど、やっぱりそうかと合点した。
 それで改めて劇場第1作『サイボーグ009』と劇場第2作『怪獣戦争』(いずれも監督は芹川有吾)を観返してみて、009の言った「いつか」というのが、その時の事だったと確信した。最初の劇場版『サイボーグ009』のラストで黒い幽霊団の首領の正体が、コンピュータであった事が判明する(ちなみに、コンピュータの上に乗っているものが脳みそに見えなくもない)。そのコンピュータは、自分は黒い幽霊団の首領であるのと同時に、大昔から戦争を起こさせてきた存在であると語る。そして、自分を作り育てたのは人間の中にある醜い欲だ、と。調べてみると「東映動画長編アニメ大全集」(徳間書店)の中で、この作品の脚本を執筆(芹川有吾と共同)した飯島敬さんは「ブラック・ゴーストのほんとうの首領は、コンピューターだったわけですが、あれはいわば人間の欲望とか野心を、現代的に象徴化したものなんです」とコメントしている。このあたりの抽象化については、前後して作られた同じ東映の『太陽の王子ホルスの大冒険』や『空飛ぶゆうれい船』と比べてみるのも面白い。
 『怪獣戦争』ではラストに、敵のボスとして魔神像(手が動いてるからロボットなのかもしれない)が登場する。この時、魔神像は009に「また会ったな」と言うのだ。魔神像は殺し合いや憎しみ、醜い欲があるところに、自分はいつでも生まれてくると語る。映像で魔神像に前作のコンピュータをダブらせている事から、魔神像とコンピュータの正体が同じであると演出的に暗示されている。
 そのように009は過去に2度、人間の心が作った悪魔と対峙しており、3度目が「平和の戦士は死なず」だったのだ。テーマ的に前2本の劇場作品でやや未消化だった部分を、描き切ったという事になる。劇場版2本から続けて「平和の戦士は死なず」を観ると「いつかのあいつだ!」も、決して唐突なセリフではない。
 ただ、白黒版『009』は劇中で、劇場版との関係性を匂わせた事はないはずだ。劇場版を観ていないと理解できない、というような不親切な作りにはなっていないのだ。だから、劇場版で滅んだ黒い幽霊団は、白黒版『009』には名前すら登場していない(原作の黒い幽霊団のキャラクターを、別の設定で使ってはいるが)。白黒版『009』は、2本の劇場版の続編として観る事もできれば、独立した作品として楽しむ事もできるものとして作られていたはずだ。先輩のアニメライター氏が言っていた「悪人と対峙した時に、敵の中に悪の心の存在を感じ取っていた」という解釈も、白黒版『009』を独立した作品として考えれば、あながち間違っていなかったのかもしれない。人の心の悪が実体化していたくらいだから、009が悪人の中にそれを見出したとしてもおかしくない。やはりあれは名解釈だったと言っていいんじゃないかと、今になって思う。
 さらに話は余談めく。ちょっと前後関係を整理しておこう。黒い幽霊団の首領(あるいは戦争を起こす悪魔)の正体が、人の心が生みだしたものであるという設定はいつ生まれたのか。劇場第1作の公開が1966年の7月で、それと前後して「地底帝国ヨミ編」の連載が始まっている。「ヨミ編」の完結は翌67年の春。つまり、黒い幽霊団の首領の正体に関しては、原作よりもアニメの劇場第1作の方が先なのだ。孫引きになるが、昨年に発売された「サイボーグ009 コンプリートブック」(メディアファクトリー)に過去の「サイボーグ009」ファンクラブ会報に掲載された芹川有吾のインタビューが引用されている。それによれば劇場第1作で、黒い幽霊団首領の正体を人間の欲望が姿を変えたコンピュータにする事は、芹川さんと飯島敬さんによるディスカッションの中で出てきたものであり、その時に石森先生にも相談しているのだという。ここから先は想像だが、石森先生は劇場第1作のアイデアを活かし、より煮詰めたかたちにして「ヨミ編」のラストで使用したのではないか。そして、さらにそれを下敷きにして「平和の戦士は死なず」が作られたのだろう。

 脇道に入りすぎた。話を本筋に戻そう。
 白黒版『009』は中学時代の僕にとって、大変な刺激を与えてくれた作品だった。勿論、傑作ばかりではないのだが、トータルでの印象も決して悪いものではない。その後しばらく、アニメでテーマを語る、という事を考える時に思い出されるのは「太平洋の亡霊」であったり、「平和の戦士は死なず」であったりした。今でも「Xの挑戦」は好きなアニメの1本だ。
 70年代後半にウルトラシリーズのブームがあり、『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』の再評価の動きがあった。つまり、ファンの間で『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』は単なる子供向けの番組ではなく、SF的にもドラマ的にも優れたものだったのだ、と見直され始めたのだ。その時、スタッフの作家性等にも注目が集まった。僕にとって白黒版『009』は、『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』に近しい位置づけの作品だ。本放送されたのも同時期だ。高校生の頃に『ウルトラセブン』の「ノンマルトの使者」等を観返した時の印象と、上映会で「太平洋の亡霊」や「平和の戦士は死なず」を観た時の驚きは近い。ただ、『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』に比べて、話題になる事があまりに少ないのが寂しい限りだ。
 話題になる事が少ないと言えば、白黒版『009』を手がけた名匠・芹川有吾も、驚くほど話題になる事が少ない。次回は芹川さんの仕事について少し書きたいと思う。芹川さんと言えば劇場作品『わんぱく王子の大蛇退治』や『ちびっ子レミと名犬カピ』が知られているが、むしろ、TV作品について書きたいと思う。

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