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「編集長のコラム」 小黒祐一郎

 第21回「芹川有吾の位置」

 芹川有吾は、もっと語られるべき演出家であると思う。
 少なくとも僕は語りたいと思うし、彼の事をもっと知りたい。芹川有吾の事を詳しく知っているアニメファンは多くはないはずだ。「誰、それ?」と言う人もいるだろう。10代、20代のアニメファンは殆ど知らないのではないか。
 彼の名前を知らなくても、前に取り上げた「太平洋の亡霊」「平和の戦士は死なず」や、『魔法使いサリー』の「ポニーの花園」(第60話)、『マジンガーZ』の「謎のロボット ミネルバX」「甲児ピンチ! さやかマジンガー 出動!」等のサブタイトルを挙げれば、ああ、あの作品を作った人かと思うオールドファンもいるだろう。
 彼の仕事は、本当に話題になる事が少ない。僕が知っている限り、アニメ誌で彼の特集が組まれた事はない。小さな記事が何度かあるだけだ。

 芹川有吾は東映動画で長年活躍していた演出家である。1931年生まれで、新東宝で助監督を経験した後に、東映動画に入社。最初に参加した作品が、東映長編第4作『安寿と厨子王丸』(1961年)。テロップ上は藪下泰司と連名で監督になっているが、実際の役職は助監督である。続く東映長編第6作『わんぱく王子の大蛇退治』(1963年)が初の監督作品となる。他の代表作は劇場作品なら『サイボーグ009 怪獣戦争』『ちびっ子レミと名犬カピ』『おやゆび姫』、TVシリーズなら『レインボー戦隊 ロビン』『サイボーグ009[第1シリーズ]』『マジンガーZ』『魔女のマコちゃん』『魔女っ子メグちゃん』『SF西遊記スタージンガー』等々。彼は、ペンネームで脚本を書く事も多く、例えば『レインボー戦隊 ロビン』では、「撃墜王パルタの鷹」「パルタ星最後の日」「リリーにおまかせ」等の傑作を残している。残念な事に、2000年10月に亡くなられている。

 芹川さんは近年まで活躍されていたが、その代表作は60年代から70年代に集中している。つまり、アニメブームが定着し、アニメファンがスタッフの作家性に注目し始める以前の事なのだ。それが彼の仕事が、あまりファン間で話題にならかった理由のひとつなのだろうと思う。もし、『マジンガーZ』や『魔女っ子メグちゃん』の頃に「アニメージュ」が創刊されていたら、間違いなく芹川有吾の大特集が組まれていたことだろう。
 あまり語られていないという事は、評価が定まっていないという事でもある。
 彼について「実写の演出を日本のアニメーションに持ち込んだ」という記述を何度か目にした事がある。そのひとつが「アニメージュ」2000年12月号(vol.270)における彼の追悼記事での、原口正宏による原稿だ。また、同じく「アニメージュ」の1987年10月号(vol.112)には、高畑勲と芹川さんの対談が掲載されており、この中で高畑さんは「芹川さんがなさったことは、演出というものを確立していく上で、非常に大きかったわけです」と語っている。ただ、いずれも、あまり具体的な話ではなく、実写の何を持ち込んだのか、あるいは演出を確立する中でどのような功績を残したのか、という話にまでは及んでいない。この辺りも、今後語られるべきテーマであると思う。
 かなり古い例になるが、「キネマ旬報」増刊の「日本映画監督全集」(1976年)に掲載された森卓也さんの手による、芹川有吾の項は非常に興味深いものだった。『わんぱく王子の大蛇退治』のチャンバラ演出に、芹川さんが助監督として師事した並木鏡太郎、中川信夫からの影響を指摘し、『狼少年ケン』のあるシーンの編集の巧みさを取り上げて「ここに芹川演出の面目がある」としている。これは主に芹川さんのカッティングに注目しているわけだ。
 話に聞けば、70年代中盤の(つまり、アニメブーム以前の)ファンダムでは、芹川さんの作品が話題になる事もあり、ファンジンに取材記事が掲載された事もあったのだそうだ。取材記事では『レインボー戦隊 ロビン』等で芹川さんが使っていたペンネームの由来が語られ、彼が書いたものの使われなかった『マシンハヤブサ』の没プロットが掲載される事もあったのだそうだ。ちなみに、その没プロットのタイトルは「女王陛下のマシンハヤブサ」。いかにも芹川さんらしいタイトルだ。実現していたら、きっとこれも傑作になった事だろう。

 彼は、日本のアニメにおいて演出を確立させた人物の中心的存在であり、60年代から70年代の東映動画を代表する監督。更に、彼の仕事について、もっと別の見方があるのではないか。僕は、芹川有吾は「アニメ」的な作品を始めた人物の1人、ではないかと思うのだ。
 かつて「漫画映画」や「テレビまんが」と呼ばれていたものが、「アニメ」と呼ばれるようになった。すなわち、子供のための娯楽だったもの(正確には、漫画映画と呼ばれていた時にも子供ばかりが観ていたわけではないが、ま、それはおいといて)が、若者のための娯楽となっていった。「アニメ」誕生のきっかけなったのが1963年の『鉄腕アトム』第1シリーズの放映開始であり、「アニメ」を完成させたのが、70年代後半の『宇宙戦艦ヤマト』であり、『機動戦士ガンダム』なのだろう。
 「漫画映画」や「テレビまんが」が、「アニメ」になっていく過程の中で、芹川さんは非常に面白いポジションにいる。TVアニメの歴史が始まる前から演出家として活動していた彼の作品は、時に「漫画映画」であり、「テレビまんが」であり、更に「アニメ」的でもあったのだ。

 70年代末のいわゆるアニメブームは、基本的には虫プロ系のスタッフなり、作品なりが起こしたものである。アニメブームの中心となった『宇宙戦艦ヤマト』は、虫プロにいた西崎義展のオフィス・アカデミーが製作した作品であるし、『機動戦士ガンダム』も虫プロ系の制作会社である日本サンライズの作品だ。アニメブーム期の東映動画の代表作『宇宙海賊キャプテンハーロック』や劇場版『銀河鉄道999』にしても、監督は虫プロ出身のりんたろうなのである。アニメブームを直接的に牽引したは虫プロ系であったとして、東映動画側で間接的にその後押しをした中心人物が、芹川さんだったのではないか。
 また、『機動戦士ガンダム』の後、アニメファンのマニアックな嗜好に応える作品が多く作られるようになるわけだが、芹川さんの作品、特に『マジンガーZ』から『惑星ロボ ダンガードA』の頃までのものは、そういったマニアックな作品の先駆けだったのではないかとも思う。

 芹川演出の魅力は、テンションの高さ、ドラマの濃密さにある(実際には、軽いタッチの作品やコメディも作っているのだが、今回はこれもおいておく)。そして、その作品の根底には「ロマン」があると思う。この場合のロマンとは何かと言えば、何かの美しさや素晴らしさに陶酔する事である。僕と同年輩か、少し上の年齢のアニメファンが「東映動画らしい」と呼ぶタイプのドラマは、実は「芹川有吾的」なものなのではないかとも思っている。
 彼は女性を描くという事に関して非常にこだわっていた。これも大切な事だ。母性的な、あるいはおしとやかな女性と、とんでもないお転婆娘。彼は、両極端なその2タイプの女性を好んで描いていた。特に、お転婆を描くときに彼の演出は炸裂する。セーラームーンやナウシカを例に挙げるまでもなく、「戦う少女キャラクター」の存在は、日本のアニメの特色でありセールスポイントだ。そのルーツは『白蛇伝』の白娘にまで遡る。「美少女が戦う」という事は、それ自体が視聴者にとって快楽である。その快楽を自覚して、演出をした最初の作家が芹川有吾だったのではないだろうか。
 次回は、彼が演出した『マジンガーZ』を例にして具体的に話を進める事にする。

(続く)

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