WEBアニメスタイル
更新情報とミニニュース
アニメの作画を語ろう
トピックス
ブックレビュー
もっとアニメを観よう
コラム
編集部&読者コーナー
データベース
イベント
 

 編集・著作:スタジオ雄
 協力:スタジオジブリ
    スタイル

WEBアニメスタイルについて メールはこちら サイトマップ トップへ戻る
コラム
アニメやぶにらみ 雪室俊一

 第8回 根っこの時代I

 中学生のときの新聞配達からはじまって、町工場の工員、本屋の店員、遊園地の従業員、印刷屋の使い走りと数えきれないくらいのバイトを経験した。主に定時制高校に通いながら働いていた。そういう話をすると「ずいぶん苦労したんですねえ」とよく同情されるが、とんでもない。学校の教室より、それらのバイト先のほうがずっとたのしかった。学校には殴ってやりたいような、いやな教師が何人かいたが、バイト先の大人たちは、みんな人間味にあふれた人たちだった。特に町工場のおじさんやおばさんは、だぶだぶの作業服を着た不器用な少年工(ぼくです)を息子のように可愛がってくれた。
 本屋のおやじさんも顔はブルドッグのようだったが、いつも気をつかってくれた。数字に弱いぼくは、毎月のように集金の金額が合わなかった。釣り銭が足りないときは、文句をいう客も多いときは知らん顔をする。
 したがって集金の金額は,いつも不足していた。それがかなりの金額になることもあったが、おやじさんは渋い顔こそすれ、「おまえがくすねたんだろう」という眼で見たことは一度もなかった。
 数々のバイトを通じて、さまざまなことを学んだ。ぼくにとっての教室は学校ではなく、それらの職場であった。
 「サザエさん」の花沢さん一家。「キテレツ大百科」のブダゴリラの家族。「あずきちゃん」のケンちゃん一家などの描写には、そういう経験が色濃く投影されている。
 バイトのなかで、もっとも居心地がよく、長続きをしたのが、電々公社(現NTT)の電報配達である。夜間請け負いといって、夜10時から翌朝7時までの電報を1通いくらで請け負い、バイクで配達する仕事だ。深夜12時以降はもらう金額が倍になる。1晩平均4、5通の電報を配達するのだが、実働時間は2時程度。その割に収入はよかったから、繁忙時には正社員より収入が多くなることもあった。
 拘束時間こそ長いが、電報が出ないときは自由時間。規則正しい生活が苦手のぼくにとって、うってつけのバイトであった。泊まりの勤務は、窓口に来る客の応対や電報の送受信を担当する、内勤の社員と2人1組でやる。
 毎晩、相手がちがっていたが、大半が同世代の若者たちで、なんの気苦労もなかった。
 大卒はひとりもいなくて、地方の高校を出て1年間の研修を受け、現場に配属されて来た社員たちだ。
 ぼくの努めていた川崎市北部の局は、バイクで10分も走ると、田んぼや梨畑のひろがる田園地帯だ。カヤぶきの農家も珍しくない。そういう家の庭には、たいてい犬が放し飼いになっている。犬は電報配達の天敵でベテランの配達員は、たいてい噛みつかれた経験を持つ。幸いぼくは一度も被害にあったことはないが、ずいぶん怖い思いをした。
 後年、「おはよう!スパンク」という、犬を主人公にしたマンガの原作を書いて、経済的な恩恵を受けたが、あのときの犬たちが反省して、報いてくれたのかもしれない。
 深夜の電報でいちばん多いのは「コンヤ カエレヌ」という、サラリーマンが外泊を知らせる電文である。当時は電話が普及していなかったので、電報が利用されたわけだ。夫の帰りを待ちわびている妻のところへ、そういう電報を届けるのだから、いい顔はされない。「ご苦労さま」もいわずに、おまえのせいだといわんばかりに睨みつける主婦もいた。
 「これじゃ、帰りたくなくなるよな」
 ぼくは、そっとつぶやいて、その家をあとにした。
 続いて多いのは「キトク」の電報である。これも歓迎されるわけがない。当時、チャイムやインターホンを備えている家は皆無である。玄関をドンドン叩いて、起こすわけだが配達先の家が起きて来る前に、近所の人がなにごとかと出て来ることもよくあった。
 内勤の仕事も見よう見まねで覚えていたので、忙しいときはよく手伝った。電話で受け付ける電報をタイピングする仕事が多かった。ワープロに抵抗がなかったのもこのときの経験があったからだ。
 近所の病院から「ハハキトク」の電報が出たことがある。自分で受け付けた電報を自分で配達するわけだ。
 深夜、配達先のアパートのドアをノックすると、小学生の少年がおびえきった顔で出てきた。キトクなのが、この小さな子の母親かと思うと、声をかけることもできなかった。
 電報配達が歓迎される時期もある。春の受験や就職の季節である。「サクラサク」や「サイヨウケッテイ」の電報を配るのは気分がいい。ある家に配達に行くと、待ってましたとばかりに家族全員が飛び出して来たことがある。どの顔も期待に満ちている。しかし、ぼくが持ってきたのは「サクラチル」の不合格電報である。これはまずいとばかりに電報をおくと、逃げるように退散したものだ。
 2人だけの勤務の深夜の局が突然、にぎやかになることもある。10時までの勤務の社員が帰らなかったり、翌朝勤務の者がラッシュの電車に乗りたくないという理由で、前夜から泊まりに来たりする。そういうときは、さながら合宿所状態になる。マージャンが始まったり、飲み会で盛り上がったりした。いまのぼくを知る人は信じないだろうが当時のぼくは一滴も酒が飲めなかった。仲間に加わって飲みたいとも思わなかった。
 若い社員が集まると、よくやったのがバイクを連ねての深夜のツーリングである。配達用のバイクは50ccのいわゆる原チャリだが、そういうときは他の部署の大型バイクを無断で拝借した。ある晩、だれかが皇居前広場にアベック見学に行こうと提案した。そして、5分後には深夜の246号線を都心に向けて突っ走っていた。
 いまから想像できないくらい交通量は少ない。信号も夜間は、すべて点滅式になっている。どこへ行くのもいまの3分1程度の時間しか、かからなかったのではないか。あっという間に皇居に着いたが、アベックどころかネコの子1匹いない。まだマイカーが普及していなかったので、カップルたちは終電とともに姿を消していたのだ。
 その帰り道、青山あたりにポツンと青いネオンが灯る店があった。ナイトクラブだった。こんな時間に、こういう店に来るのは、どんな人種なのか。店の前でバイクをとめて、しばらく様子を見ていたが、だれも出て来なかった。不気味に静まり返っている店内が不気味だった。
 いまでいうテレクラごっこもよくやった。ダイヤル市外通話は、まだ大都市間だけで、地方都市への通話は交換手がつないでいた。20キロほど離れた交換局には数百人の交換手が24時間体制で勤務していた。そこへ電話して、彼女たちとのおしゃべりをたのしむわけだ。同じ社員同士ということもあって、たいていの子が気軽に雑談に応じてくれた。映画や小説の話で意気投合、気がついたら夜がシラジラと明けていたこともある。
 声馴じみが出来ると、当然のことながら「今度、会わない?」ということになる。OKした彼女たちの決まり文句があった。「会うとがっかりするわよ」。
 のこのこ出かけると、ほんとうにがっかりして、「声だけにしておけばよかった」というのが、パターンだった。もっとも向こうにしても「あら、こんな坊やだったの」と、がっかりしたらしい。生意気な人生論を語ったりするから、どんな人だろうと来てみたら、現れたのはニキピ面の高校生なのだから、拍子抜けするのも無理がない。
 いろいろな悪さのなかで、いま思い出しても冷や汗が出る出来事がある。見つかっていたら、まちがいなく警察沙汰になっていたろう。

(この項つづく)

一覧へ戻る


Copyright(C) 2000 STUDIO YOU. All rights reserved.