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■アニメやぶにらみ 雪室俊一
第15回 魔法使いサリー
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ぼくの作品の中でもっとも再放送回数の多いのが『魔法使いサリー』である。それこそ、フィルムがすり切れるほど何回も放映された。
元々、記憶力のいいほうではないので、自分の書いた作品は次々と忘れてしまう。しかし、サリーだけは40年近く経った、いまでもサブタイトルからストーリーまで記憶に残っている作品が多い。 作品とともに忘れられないのは、東映動画(現東映アニメーション)の初代プロデューサー・飯島敬さんである。色白の二枚目で一見、神経質な文学青年タイプの風貌と相反した豪傑だった。原稿を渡すとサブタイトルを見てニヤリ。おもむろに読みだすのだが、読むというより、ただページをめくっているという感じだった。こんな読み方で内容が頭に入るのかと心配になるほどの速さだった。読み終わると、大きくうなずいて「次のシナリオは、いついただけますか?」。そして、締め切りの日が決まると「お疲れさまでした」ですべての打ち合わせが終了。 プロットを出せとか、次の話はどんなテーマで書いてほしいとか、細かい注文は一切、出さなかった。仕事以外の雑談などもした覚えがないので、飯島さんと会う時間は、いつも30分程度だった。 当時の大泉界隈(東京・練馬区)は、まだ田園風景が色濃く残っていて、畑のなかを鼻唄気分で大泉学園の駅に向かったものだ。調子がいいと世田谷の自宅に帰り着くまでに次の話の構想が浮かぶこともあった。 なにしろ、なにを書いてもいいのだから、こんなたのしい仕事はない。そんな中で生まれたのが「東京マンガ通り」や「消えたサリー」などの作品である。事故死した友だちに借りた本を返すために天国へ行こうとする少年を描いた「マンガ通り」は見方によっては自殺志願の子どもの話で、現在のテレビ界では絶対に通らないだろう。 「歩きだした大仏さま」などは、飯島さんをニヤリとさせるためのサブタイトルを考えているうちに思いついたアイデアだ。 もっとも飯島さんがOKしても演出家からクレームがつくことはあった。「魔法の地下鉄ゼロ号線」で、いくらなんでも魔法で地下鉄を出すのは、やりすぎではないかというのだ。いまなら理解できる意見だが、当時のぼくはイケイケムードで、地下鉄を出してなにが悪いと居直って主張を通した。映像化されたものは、アニメならではのファンタスティックな作品に仕上がっていた。 なにも注文を出さない、飯島さんが一度だけ注文を出したことがある。ミュージカルを書いてくれないかというのだ。音痴の上に音楽を聴くという習慣がほとんどない、ぼくにとって過酷な注文だったが、いままでなんでも書かせてくれた、飯島さんの意見を無視するわけにはいかなかった。 見よう見まねで書いたのが「ラクガキパレード」で、ぼくの拙い詩に当時、新進作曲家だった小林亜星さんが曲をつけてくれた。演出の黒田昌郎さんががんばってくれて、なんとかミュージカルらしいものが完成した。 これで味をしめたぼくは、ずうずうしくも並行して書いていた『ドンキッコ』(石ノ森章太郎原作)にミュージカルの企画を売り込んだ。フジテレビの担当プロデューサーの新藤善之さんとは『ハリスの旋風』以来の付き合いということもあって簡単にOKが出た。新藤さんも飯島さんタイプのプロデューサーで、ライターを全面的に信頼してすべてを任せてくれた。 2作目ということもあって、作品としての完成度は、こちらのほうが高いと思う。残念なことに番組がヒットしなかった上にモノクロ作品ということもあってビデオ化されていない。 いまのアニメ業界で金と時間がかかる、ミュージカルをやるのは至難の業だろう。したがって、この2作はぼくの生涯でたった2本のミュージカルということになる。 他の作品でミュージカルをやったという話は聞かないので、もしかするとアニメでたった2本のミュージカルかもしれない(間違っていたらご教授を)。 前にもちょっと書いたが、サリーがスタートしたときはモノクロだった。これが途中からカラー化されたのだが、ぼくの家にカラーテレビはなかったので、ずっとモノクロで観ていた。数年後の再放送でやっとカラー作品としてのサリーに再会したわけだ。さらにおもしろいのは、当初は半年で放送を終える予定で、早々と最終回のフィルムが出来上がっていた。ところが好評のために延長に延長を重ね、2年間のロングランになった。いよいよ放送が終わるという段になって困ったのは、ポロンなど延長分で登場したキャラクターの整理である。なにしろ、最終回には出ていないのだから、うまく消えてもらわないと困る。その本はぼくが書いたのだが、先に完成している、最終回に合わせてシナリオを書くような経験は最初で最後であろう。 しかもこの最終回を書いたのは、飯島さんではないかという説がある。実在しない幻のライターが書いたことは間違いないのだが、いまとなってはたしかめようがない。 飯島さんはたいへんな酒豪で、そのために命を縮めてしまった。だが、ぼくは一度も酒席をともにしたことはない。当時のぼくは一滴も飲めなかったからだ。もし、酒が飲めたら、もっと濃密な付き合いが出来たと思うが毎回30分だけの付き合いの方がよかったのかもしれない。 ふしぎなことに飯島さんと会う日は、いつも快晴で傘をさして大泉に行ったことはない。原稿を渡し、晴々と家路に着くときの空の青さと、原稿をめくる飯島さんの女性のような指の白さを一生、忘れることはないだろう。
(了) |
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