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アニメの作画を語ろう
animator interview
福島敦子(1)


 福島敦子の名は、今ではゲームのキャラクターデザイナーとしての方が有名かもしれない。だが、作画好きなアニメファンにとって、彼女は忘れる事ができない魅力的なクリエイターの1人だ。『ロボットカーニバル』のオープニング、エンディング等で見せた作画の切れ味のよさ、あるいは『金の鳥』や『迷宮物語』で見せた奔放なイマジネーションは、今なお色褪せる事はない。杉野昭夫の流れをくむ画の魅力と、大胆な動きの面白さを併せ持つアニメーターなのだ。
 アニメーションの世界から離れて久しいのがまったくもって残念である。アニメファンからラブコールを送る意味もこめて、「WEBアニメスタイル」に登場していただこう。


2001年7月30日
取材場所/東京・西東京市
取材/小黒祐一郎
構成/小川びい
PROFILE

福島敦子(Fukushima Atsuko)
大阪府出身。アニメーター、イラストレーター、キャラクターデザイナー。嵯峨美術短期大学卒業後、デザイン会社を経て、マッドハウス入社。その後、あんなぷるの設立とともに同社へ移り、『あしたのジョー2』『スペースコブラ』等で活躍した後、フリーとなる。代表作に『金の鳥』や『Manie―Manie 迷宮物語』「ラビリンス*ラビリントス」がある。現在はアニメーションの現場を離れ、『ポポロクロイス物語』シリーズのキャラクターデザイナーや、イラストレーターとしての活動がメインとなっている。森本晃司の奥サマでもある。

【仕事歴】
小黒 福島さん個人のお仕事にも凄く興味があるんですが、それとは別にマッドハウスとあんなぷるという制作会社については分からない事も多いので、そのあたりも今日はうかがえればと思っているんです。
福島 今のマッドハウスについては、私はほとんど分からないと思いますよ。入って程なくあんなぷるに移っちゃったから。
小黒 ああ、なるほど。
福島 私は、アニメ専門学校にも行ってないんですよ。だから、マッドハウスで一から教えていただいたような感じでしたね。
小黒 嵯峨美術短期大学の卒業とお聞ききしたんですが。
福島 そうです。もう今は、短期ではなくなっているんですけどね(現・嵯峨芸術大学)。
小黒 学生時代から、アニメに関わるような活動はなさってたんですか。
福島 ええ。アニメーション・ワークショップってご存じですか?
小黒 確か、東京でアニメーション作家の方々が中心になって開いたアニメ教室ですよね。
福島 その第1回に参加しているんですよ。
小黒 そもそもアニメーションに興味をお持ちになったのって、いつぐらいからなんですか。
福島 大学に入ってからですね。当時はアニメに関する情報も少なくて、私なんかは普通の人でしたから(笑)。カナダのアニメーションの上映会に行ったりして、「ああいうのは、面白いなあ」と思って、そこから、段々と「やってみたいなあ」に、気持ちが変わっていったように思います。それから、出崎(統)さんの『ガンバの冒険』、あれが好きだったんですよね。
小黒 『ガンバの冒険』の放映は、まだ大学に入られていない頃ですよね。
福島 ああ、そうなります? じゃあ、高校生の時は見ていないのかなあ……。そのあたりはっきりしないけど。高校時代は「楽しそうだな」だけで、「やるんだ」なんて感覚はなかったです(笑)。
小黒 出崎さんのファンで、アニメ界にお入りになった、と聞いてますが、作品としては、やっぱり『ガンバ』が大きいんですか。
福島 『ガンバ』と、それから短大時代に、消防関係の短編を観たんです。
小黒 ああ、『ザ★ファィヤーGメン』ですね!
福島 そうですそうです。あれがやたらと面白かったんですよね。それが引っかかっていて、で、出始めたばかりの「アニメージュ」を読むと、こういう仕事があるんだな、という事が段々分かってくるようになって。そうなると、「やりたいなあ」と思うようになってきたんですね。でも、どうやってアニメの仕事に就いたらいいか分からない。そんなところで、出崎さんの本を見つけたんです。
小黒 えーと、出崎さんの本と言うと?
福島 出崎さんが当時、絵本を描いていたんですよ。確か「ドングドンとことだま大王」と言ったかな(注1)。それをたまたま本屋で見つけたんですね。
小黒 それは普通に書店で売っていたんですか?
福島 ええ(笑)。ちょうど『ファィヤーGメン』見た頃に買ったんだと思います。書店で、「あ、この本はもしかして」って思って手に取ったら、それだった、という感じですね。で、どういうわけか、その本の奥付に出崎さんの住所が載っていたんです。
小黒 ええっ?
福島 滅茶苦茶ですよね(笑)。それで、出崎さんに、見学に行きたいというような内容の手紙を出して、それで、何人かでマッドハウスへ遊びに行ったんです。
小黒 へえー。学生時代はフィルムを作ったりはしてたんですか?

(注1)「ドングドンとことだま大王」  
出崎統が画を担当した絵本。吉田喜昭・作、さきまくら・絵。1976年アリス舘刊。残念ながら現在は絶版。
福島 ……してました(笑)。今、スタジオジブリ等で仕事してらっしゃる大谷敦子さんやなんかと一緒に同好会みたいなものを作っていたんですよね。カナダのアニメーションで『ザムザ氏の変身』というのがあったんですけど、それを真似て小麦粉を使って撮ってみたり……(注2)
小黒 で、卒業後にそのままマッドハウスへ?
福島 いえいえ。テキスタイル・デザインの会社に一旦就職してるんです。布地の柄なんかを描く仕事ですね。かわいい系の絵柄担当だったんですよ。そうやってある程度貯金して、マッドハウスに入れそうだ、という感触を得てから出てきた、っていう感じでした(苦笑)。
小黒 なるほど。実際にアニメの仕事を始められて、いかがでした。
福島 「私って、描けない」と思いましたね(笑)。
小黒 初原画は何になるんですか?
福島 それが覚えてないんですよ。普通、みなさん覚えてますよね(苦笑)。『ニルスの不思議な旅』か『のどか森の動物大作戦』か……。初めてやった動画は、入ったときにちょうど『ユニコ』を制作していたので、それのラフ原画のクリンナップからだと思うんですけど。
小黒 と言う事は、あまり動画の期間はないんですね。
福島 ……ですね。なんでだろう?(笑) その前後で、すぐにキャラクターデザインの仕事をしているんですよね。『電話の天使、電話の悪魔 電話のマナーは思いやり』っていうPR映画があって。メインのキャラクターは杉野さんだったんですけど、他に出てくるヤツをちょこちょこと。
小黒 ああ、大橋(学)さんがおっしゃっていた、福島さんが作ったPRフィルムって、それですね。
福島 私が作ったわけじゃないですよ(苦笑)。色んなキャラクターが出てくるので、そのお手伝いという感じだったと思うんですけど。ちゃんと描けなかったのを、杉野さんが綺麗に整理してくださったんです。『金の鳥』の時も、やっぱり大橋さんがデザインを整理してくださったんです。いつも私が描いて足りないところを、みなさんが補足してくださっているんです。
小黒 ああ、そうですね。ちょっと話が前後しますが、大橋さんとはコンビで仕事をなさる事が多いですよね。
福島 コンビじゃなくて師匠と弟子。申し訳ないですね。画が安定しないんで、お願いしっぱなしなんです。画はいまだに、安定してないんですけど。
小黒 大橋さんの話は、後でじっくり聞かせてください。それから、他に当時影響を受けた方っていらっしゃいます?
福島 出崎さんが一番で、次に杉野さんという感じですけど。でも、もう周りみんなという感じですよね。私は周りが見えなくてひたすら描いているタイプで、あまり他の人はこうやっているぞというのを探して観るタイプではなかったんですよ。でも、森本(晃司)経由で色々入ってくるんです(笑)。話を聞かされて、見せられたもの全部が「凄いな、凄いな」という感じでしたね。
小黒 当時、森本さんが色々と教えてくれたんですか。あの作品がいい、この作品を観ろ、って?
福島 あんなぷるになってからは、そういう事もよくありましたね。あそこは、凄くアットホームなところだったんで、面白いものがあると、みんながビデオを持ってきて、会社で観ていたんです。そういうのを横で観てて、「こんなのできないよ」って、溜息ついてましたね(笑)。
小黒 いや、でも、『スペースコブラ』なんかでは、凄く派手なアクションを描いてらっしゃいますよね。
福島 派手にしなきゃいけない、と思ってましたから(笑)。下手ですよね、あれは。描けないとああなっちゃうんですね……。実は、今回お話するというんで、色々と自分の関わった作品を観返してみたんですよ。そういう事は、ずっと避けていたんですけど(苦笑)。
小黒 いかがでした?
福島 観返してみたら、凄く落ち込みまして(苦笑)。『コブラ』も、当時はよかれと思ってやったんですけどね。今観ると、若気の至りで。
小黒 いえいえ、元気いっぱいですよね。
福島 色んな事をやってみたかったですからね。格好いいと思ったものを「ちょっと真似してみようかな」という気持ちがあったかもしれません。
小黒 あんなぷる時代で思い出深い作品と言うと何になるんですか。
福島 全然描けなかった『ジョー2』です(笑)。
小黒 描けなかったんですか?
福島 描けなかったですよ。画ががっちりしているじゃないですか。描けば描くほどダメになっていくんですね。それに、私は基本がしっかりとできている人間ではないので……。ほら、巧い人は全体の動きのプランを立ててから描いていくじゃないですか。私は、描きながらプランを立てて、という感じだったんです。いや、そもそも全体のプランを立てるという事すらできなかったの。とにかく端から描いていくという感じなので、だから時間がかかる上に、できが悪い(苦笑)。「嫌だな」と思った事はないんですけど、「描けないのは辛いな」とは思いました。でも、本格的にアニメをやり始めたのは『ジョー』からなんで、一番思い入れがありますね。
小黒 あれは、始まった時はマッドハウスの制作だったんですよね。
福島 そうですね。マッドハウスで、『ジョー』をやる人と『ユニコ 魔法の島へ』をやる人と振り分けようという話になったんです。その時に、「女の子は『ユニコ』だよね」って言われて、女性全員が「えーっ!」って声を上げたんですね(笑)。女性はみんな『ジョー』をやりたがったんです。
小黒 あ、そうなんですか。
福島 ええ。「だよね」って言われたのが嫌だったのか(笑)。今思えば、『ユニコ』をやった方が楽しかったかもしれない、と思うんですけど。
小黒 そうですね。向いているかもしれませんね。
福島 当時は、「描けないかもしれない」と思うようなものであっても、「やってみたい」という気持ちが強かったから。まあ、杉野(昭夫)さんがメインだったという事もあるんでしょうが。杉野さんも「どうかなあ」という感じで様子を見ていてくださったと思います。だから、「どこをやったか」なんて訊かないでくださいね(微笑)。
小黒 はい(苦笑)。当時は、でも、アクションアニメーターでしたよね。『コブラ』とか劇場版『レンズマン』とか。
福島 いや、仕事がそういう仕事ばかりでしたから。「あれ、違うぞ」と思いながらね(笑)。ほら、『ガンバ』『家なき子』『宝島』『マルコ・ポーロの冒険』とTVで観てきていたから、その路線のイメージがあったんです。『ジョー』はまだしも、『コブラ』『ゴルゴ』とくると、「あれっ?」って。段々(作品が)ハードになっていくじゃないですか。勿論、そういうものも「ちゃんとできるようになりたいなあ」と思ってやっていたんですけど。
小黒 森本さんからは、「なかむらさんに憧れてあんなぷるを辞める時に、福島さんも一緒に引っ張って辞めた。そうしたら主力を引っ張っていったというので出崎さんから怒られた」というふうにうかがっているんですが。
福島 いえ、引っ張ってはいないと思いますよ(笑)。それに私は、別に主力でもなんでもないですから。あれは時期がそういう時期だったかな、と思うんです。先が見えなくなっていて、それとは別に自分達にとってやりたい事が見えてきたりもしていたから。それで「(あんなぷるを)ちょっと出たいな」と。今思えば、凄い人ばかりの恵まれた職場だったんですけどね。
小黒 特になかむらさんに憧れたというわけではない?
福島 いえ、「凄いなあ」と思いましたよ。出崎スタイルと言うか、杉野スタイルってあるじゃないですか。そういうものとは違う方向があるのが段々見えてくると「違ったスタイルのものも一度やってみたいな」と思っちゃうんですね。マッドハウスに参加していたのは短かったし、あんなぷるというのは、「歩きはこうだ」みたいな感じで動画を一から教えてくれるような感じの職場ではなかったから、それまでちゃんとアニメについて勉強した事がなかったんです。だから、自分には動きの基礎みたいなものがないんだ、という思いがあって。そうなると、余計に違ったスタイルのものにも触れてみたいな、という欲求があったんです。
 当時、アオリの画がとても難しくて、杉野さんに「アオリの画ってどういうふうに描いていけばいいんでしょうね」って訊いた事があるんです。そうしたら、「アオっていると思って描けばそうなる」って言われちゃったんですよ(笑)。パースどおりにアオらせればいいっていうわけでもないですし、微妙なところは、見たら分かるだろうと思われていたからだと思うんですけど。そういう意味では、職人的な職場だったんですよ、あんなぷるって。マッドハウスはまた少し違っていたんですけど、それはそんなに長くはいなかったから。
小黒 なるほど。そうすると、なかむらさんがどうこうではなくて、違う仕事をしてみたい、という気持ちが強かった?
福島 あー、どちらかと言うとそうですね。勢いで出ちゃったかもしれない(苦笑)。
小黒 僕らマニアが福島さんの名前を覚えたのって、『ウラシマン』の「ネオトキオ発地獄行き」なんだと思うんですよ。
福島 もう、「森本とこいつがなんで一緒に」みたいな感じだったんじゃないですか。
小黒 いえいえ。
福島 あれも大変で、全然描けなかったんですけど……。それでも新鮮でしたね。「こういうやり方もあるんだ」と思いましたから。隣に河口俊夫さんが座ってらしてね。それまで、私は車の光沢なんかは「モノなんだからただ光らせればいい」としか思っていなかったんです。ところが、河口さんが言うには、「なかむらさんの、車の表面の光沢は、ヌラッとした車体の質感が出ていていい」って。それを聞いて、「ああ、そういう考え方があるのか」と感心しましたね。私は、必要を感じないと、ただ漫然と画を描いているだけだったんですけど、そういうところにも喜びがあるんだ、って分かったんですよ。そういう感じで、どこに楽しみを、表現したい事を見出すか、という点で、ひとつひとつが発見でしたね。『ジョー』や『コブラ』の時にはなかったような着眼点と言うか、それまでとは違った価値観が見られて面白かった。
小黒 ちょっと話を戻していいですか。あんなぷる時代には、細かく「こう描け」みたいな指示ってあったんでしょうか。
福島 「こう描け」とは言われなくて……そういう時には、杉野さんは黙って直します(笑)。杉野さんの机に積んである原画を、あとでこっそり見に行くわけですよ。そうすると――当時、作監修正は今みたいに黄色い紙じゃなくて、白い紙に印が付いた紙を使っていたんですけど――自分の描いたカットに、その、印が付いた紙がガーッと入ってるわけね(笑)。形が直されているぐらいだったら「ああ、よかった」って喜ぶぐらい。今でも「あれは凄いな」って思うぐらい、本当に凄いパワーで杉野さんは直してらっしゃいましたね。だから逆にリテイクをくらう事はほとんどなかったんです。きっと描ける人には、どうしてくれ、こうしてくれって言っていたんだと思うんですけど、「ダメだな」って思われると、そういう原画は返ってこないんですよ。だから、その直したものを見て、「勉強しなさい」っていう感じでした。実際、杉野さんの原画は説得力がありますから、言われるより見た方が理解は早いんですよね。杉野さんはそういうタイプでした。
小黒 なるほど。話を続けますけど、『金の鳥』は独立した直後になるんですか?
福島 あ、『ウラシマン』の次くらいですね。またマッドハウスに戻ったんだ。
小黒 福島さんにとっても、これは大きな仕事だったと思うんですけど。
福島 ええ。ちゃんとキャラクターをやらせてもらったのも初めてですし。
小黒 えっ? キャラクターは大橋さんがやられたんじゃないんですか。
福島 あっ、だから……メインは勿論、大橋さんなんですよ。キャラクターのバリエーションを考えて、ロボットとか魔女とかそういう周りのものをラフで色々描いて。それを大橋さんが、最終的にキャラ表にまとめてくださったんです。だから、できあがったものは大橋さんのキャラなんですけど。
 確か、メインの王子3人を大橋さんが考えられて。それで、最初は「女の子の服を考えて」って言われたんだったかな。それでお姫様のドレスなんかを描いたら、次は「じゃあ、魔女も考えて」って。そんな感じだったんです。
小黒 クレジットには画面構成と原画で、新川(信正)さんと並んでお名前が出ていますよね。でも――大橋さんにうかがった時にも聞いたんですが――実際には作監もやってらっしゃる?
福島 ええ、新川さんも入れて、3人で作監も分けてやってますね。あまりあの作品は話題にはならなかったんですけど、あの仕事は面白かったですね。
小黒 いや、作品としても相当面白いですよ。3匹の刺客がいるじゃないですか……。
福島 あ、あれは大橋さんが、自分のうちの猫をモデルにして描いてたと思います。
小黒 そうなんですか。僕はてっきり福島さんだと思ってました。



(注2)『ザムザ氏の変身』
キャロライン・リーフによる、カフカの「変身」をモチーフにした短編アニメーション。砂をガラスの上に敷き、下から光を当てて、その濃淡によって画を表現するという技法が使われている。

●「animator interview 福島敦子(2)」へ続く

(01.11.13)




 
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編集・著作:スタジオ雄  協力: スタイル
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