第20回 『機動戦士ガンダム』
『機動戦士ガンダム』は、1979年4月に放映がスタートしたTVアニメだ。現在でも多くのファンに支持されているビッグタイトルである。巨大ロボットをモビルスーツという兵器としてとらえ、リアリティのある世界観でドラマを展開する等、様々な新機軸を打ち出した。今さら紹介するまでもないだろうが、原作と総監督(原作は連名)は富野喜幸(現・由悠季)、キャラクターデザインとアニメーションディレクターは安彦良和。日本サンライズ(現・サンライズ)の作品である。
本放送開始前の期待は、あまり大きくなかった。あくまで新しいロボットアニメの1本だった。当時の「アニメージュ」の新番組特集では、同時期に始まった『未来ロボ ダルタニアス』に1ページを割いているのに、『ガンダム』は3分の1ページの扱いだ。『無敵鋼人ダイターン3』の最終回についた予告で、ハードなロボットアニメらしいという事は分かっていた。『ダイターン3』最終回は録音して、予告編も込みで何度も聴いた。今でも1話予告ナレーションはソラで言えるくらいだ。
1話からして衝撃的だった。特に印象的だったのが、戦いが始まった途端に、ガンダムのバルカンが弾切れになったところだ。ロボットアニメでは主役ロボットは無限とも思える量の弾薬を積んでいるというのが、僕にとっての常識だった。実際には、それまでのロボットアニメにも弾切れの描写はあったかもしれないが、『ガンダム』1話では、主役メカが立ち上がって戦闘を始めた途端の弾切れ。ましてや戦闘に慣れない主人公が戦い始めたところでの弾切れである。これには驚いた。ザクのパイロットであるジーンが、ガンダムに対して「おびえてやがるぜ、このモビルスーツ」と言うのだが、確かに主人公のアムロは、敵のモビルスーツに恐怖し、必死に戦っていた。そして、そう言うジーンも額に汗をかき、興奮していた。生々しい人間同士の戦いだ。1話の段階で、これは人が簡単に死んでしまうかもしれない世界における戦争なのだという事が分かった。その緊張感に痺れた。1話の印象は「リアル」ではなく「シリアス」だった。1話を観た後に、友達と「シリアスだったね!」と興奮して話し合った。
その緊張感は2話以降も続いた。アムロ達はホワイトベースに乗り込み、サイド7を離れる。やがて、舞台は地球に移り、アムロは戦う事に悩み、仲間と衝突し、脱走までしてしまう。彼はマイコン好きのインドア派で、性格はナーバス。生意気なところもあれば、イジけもする。当時の僕は、アムロと同じ15歳であり、それもあって、より共感できた。『宇宙戦艦ヤマト』の古代進も人間味溢れるキャラクターだったのだが、熱血漢でヒーロー的なところもある古代は、アムロに比べれば、一世代前の主人公だった。
ロボットものとしても面白かった。シャアのモビルスーツが「通常の3倍のスピード」であるとか、ザクよりも戦闘力の高いグフが登場する等、メカの性能というものがはっきりとある世界だった。力押しだけでなく、戦術を考えて戦うところもよかった。作品全体のクールな、あるいはドライな感覚も魅力だった。キャラクターの関係にザラザラした感じがあり、それもハードな物語とマッチしていた。そんな中で、アムロのマチルダに対する淡い初恋、フラウの可愛らしい嫉妬といった柔らかい感情が描かれているところに、グッときた。だから、熱中して観た。
それまでは子供向けに作られたロボットアニメの中に、ドラマチックなエピソード等、大人びた部分を探して楽しんでいた。『超電磁マシーン ボルテスV』にしても『闘将ダイモス』にしても「ロボットアニメなのに、こんなドラマをやっている」といった意識で観ていた。感心するにしても「ロボットアニメなのに」という前提がついたのだ。『ガンダム』はそうではなかった。ロボットアニメである事を忘れてしまうくらい、未来戦争ものとしてしっかりと作られていた。しかも、リアルな未来戦争ものでありながら、さっきも言ったようにロボットアニメとしても面白かった。強い主人公ロボットが敵を倒していくというロボットアニメの快楽を充分に備えていた。だから「ロボットアニメなのに、リアルな戦争もの」ではなく、「ロボットアニメであり、なおかつリアルな戦争もの」だった。「ロボットアニメがこんなに立派になった」という感慨があった(それだけに、中盤で水陸両用モビルスーツのゴッグやズゴックが出てきた時は、その怪獣的な外見に、また旧来のロボットアニメに戻ったような気がして、少しガッカリした)。
アニメとしては、決して一流の作品ではなかった。安彦良和が作画監督を務めたエピソードは、画がきれいだったが、クオリティが高いとはいえないエピソードもあった。BANKと呼ばれるカットの使い回しも多かった。ただ、スタッフが賢明に作っている事はフィルムから感じとれたし、映像的な粗さを補ってあまりある新しさや、魅力があった。僕は、生意気にも、ブラウン管の向こう側のスタッフに「頑張れ」とエールを送りながら観ていた。
内向的だったアムロが、戦いを通じて大人になっていくドラマだと思っていた。マイコン好きのアムロが、自分の得意な事を活かすかたちでモビルスーツを操縦し、優秀な兵士になる事で、大人になっていく。そういう話だと思っていた。事実、中盤までのシャアとの関係、ランバ・ラルとの出逢いには、そういったニュアンスがあった。だが、アムロは大人にならなかった。兵士として優秀な戦果を上げ続けていたが、シリーズの後半で、彼が強かったのは、ニュータイプだったからだという事が判明する。ニュータイプの定義は曖昧だが、特殊な能力を持った一種の新人類の事と考えればいいだろう。「アニメージュ」で「アムロはエスパーだったのか?」といった趣旨での記事が掲載された時には、「そんな馬鹿な」と思った。だが、ララァ・スンの登場を契機に、物語の中でニュータイプの存在が大きくなっていった。
42話についた最終話の予告を観て「本当に次が最終回なの?」と思った。サブタイトルが「脱出」という、最終回らしからぬものだったからだ。最終回についての印象は複雑だ。アムロは、敵のザビ家の人間と顔を合わせもしなかった。沢山の敵を倒しはしたが、戦争終結に関して大きな働きはしていない。ライバルであるシャアとの決着もつかなかった。ニュータイプ同士の精神の交信で、ア・バオア・クーから脱出し、人間同士がいつか分かり合えるのではないかという可能性を示すのが、ラストシーンだ。『ガンダム』という作品のリアリティを考えれば、1人の兵士の活躍で戦争が終結するわけはないし、アムロがザビ家の人間を倒したからといって、必ずしも、それが彼の成長を描く事になるわけではないだろう。今となれば、それは理解できる。アムロが仲間の元に戻っていくラストシーンも感動的だった。だけど、アムロには何かの決着をつけてほしかった。後になって、どうして最終回を物足りないと思ったのか、その理由に気がついた。アムロは大人にならずに、ニュータイプになってしまった。だから、物足りないと感じたのだ。「脱出」というサブタイトルについては、いまだにどういう意味なのか考える事がある。
『ガンダム』は全52話の予定で始まったが、視聴率の不振、玩具の売り上げが伸びなかった事から、予定を変更して全43話で終了している。もしも、全52話作られていたら、僕は物足りなさを感じなかったのだろうか。間違いないのは、その物足りなさがあったために、後に続編の製作が発表された時に、抵抗を感じなかったという事だ。アムロとシャアの決着が描かれるのは、続編の『機動戦士Zガンダム』ではなく、最初のシリーズから10年後に作られた劇場作品『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』だった。僕が、アムロが大人にならなかった事の意味に気づくのは、さらにその後の事だ。
第21回へつづく
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(08.12.02)