第36回 アニメがあればいいと思っていた
ここ数週、1979年前後の作品を観返したり、考えたりしているうちに、思い出した事がある。あの頃、僕は「アニメだけがあればいいじゃん」と思っていた。
当時、それを言葉にして誰かに言ったわけではないし、実際には、実写の映画やTVドラマも観ていたが、気分としてはそうだった。そのくらいアニメに魅力を感じていた。物語を楽しんでいたし、キャラクターにも魅力を感じていた。キャラクターの魅力には、今で言うところの、萌え的なものも内在していたのだろう。実写やマンガでは味わえない、映像的な快楽もあった。今でこそ、アニメ的なビジュアルはゲームやマンガの中にもあるが、当時は、アニメの中にしかなかった。
だが、それだけではない。そこには「宇宙のロマン」があり、「リアルな戦争」があった。「素朴な人間讃歌」があり、「人類の革新」もあった。「当たり前の生活にある歓び」があり、「人を愛する事の辛さ」もあった。若者が真剣に観るに価する作品が、何本もあった。だから、アニメだけがあればいいじゃん、と思っていた。胸を張って「僕はアニメが好きだ」と言えた。
やがて、そこまでアニメを盲信できなくなっていくのだが、その理由や過程については、この先の連載で書きたいと思う。
以下は別の話題。『赤毛のアン』、劇場版『銀河鉄道999』、劇場版『エースをねらえ!』、『ルパン三世 カリオストロの城』等を観返して感心するのは、内容に普遍性があり、古びていない事だ。表現的にも洗練されている。特に今は、普遍性に惹かれる。
日本のアニメの歴史は『鉄腕アトム』から始まったわけではないが、そこから急激な進歩を遂げ、変化した。1979年までの17年間の進歩は驚くほどだ。この段階で、日本のアニメはほとんど完成している。それから現在までの30年間で、新しい傑作や、新しい表現も生まれているのだが、進歩しているかというと、実は、それほど大きくは進歩していないと思う。
第37回へつづく
(08.12.25)