アニメ様365日[小黒祐一郎]

第41回 ミュウが生まれた理由

 前々回(第39回 劇場版『地球へ…』)も書いたように、『地球へ…』の原作について「思春期の物語」であり、劇場版を「青春物」だと感じた。そのように作品の印象は違っていたが、物語の流れについては、ほぼ同じものだと思っていた。
 ただ、前述の恩地日出夫監督インタビューで「ただ、『キネマ旬報』のインタビューで竹宮さんが話しているけど、俺は人間にこだわってるわけね。やっぱり人類がどうなってくかという事に興味があって、ミュウも人間のひとつのかたちなのではないかという意識があった。竹宮君は感覚的にミュウのほうがいいと思っていて、人間がミュウという別の存在になってもいいんじゃないの、という考えがあった。その辺はちょっとズレがあったね」という発言があった。「キネマ旬報」の記事を見ると、確かに竹宮恵子がそのように語っている。劇場版は、原作よりもウェットになっているらしい。コンテが全部上がった段階で、違いを指摘し、恩地監督もその指摘を理解したが、修正するのはスケジュール的にも難しく、そのまま作る事になったという事だ。取材の後、そのズレがどんなものだったのかが気になって、改めて原作をチェックしてみた。当時問題になったのがどの部分かは分からないが、僕が気がついた原作と劇場版との違いを記しておく。
 原作と劇場版での一番大きな違いは、劇場版ではトオニイが、ジョミーとカリナの間にできた子供であるという点だろう。それは公開時にも気になっていた。原作でもトオニイは、初めて自然出産で産まれたミュウの子供なのだが、ジョミーの子供ではない。ミュウとは、成人検査をパスしなかった人間。つまり、大人にならなかった者達だ。実際にはミュウにも老人はいるが、リーダーであるソルジャー・ブルー、ジョミー、あるいはフィシスは年齢を重ねても、若々しい姿を保っており、ミュウには「永遠の少年」のイメージがある。ティーンのファンが共感できる設定であり、僕もちょっとくすぐったいとは思ったが、それに魅力を感じた。原作に「思春期の物語」という印象があるのは、そういった部分に由来しているのだろう。「永遠の少年」のイメージがあったために、劇場版で主人公のジョミーがカリナと子供を作ったのは、ちょっとしたショックがあった。作劇的に考えれば、短い尺数の中でより「ジョミーの物語」とするためには、その改変が必要だったのだろう。また、ジョミーとカリナの初々しい関係性が、劇場版の青春物的な印象を強めていた。
 原作と劇場版では、クライマックスからラストシーンに至る展開が違っている。原作のラストシーンでは、カタストロフに巻き込まれ、旧人類もミュウも大半が死に絶える。そして、エピローグにおいて遠い未来での、ミュウの少年と少女の出逢いが描かれる。劇場版のラストシーンでは、多くの旧人類とミュウが生き残る。そして、昇っていく朝日を背景にして、ミュウの宇宙船が地上に降りてくるのを、人々が見守る。旧人類とミュウが一緒に暮らす時代が訪れたのだ。また、大地に草花が芽生えているという描写もあり、かつて人間が破壊してしまった地球の自然が甦りつつある事も示されている。大味な解釈になってしまうが、原作のラストは、間違った道を進んでしまったヒトは一度は滅ぶべきだという事を示し、劇場版のラストは、たとえ間違ってしまったとしてもヒトは明るい未来を築けるのではないかと訴えているのだろう。
 ミュウの発生に関する設定も違っている。原作と劇場版の違いについて考える上で、それが重要であるような気がする。ミュウが体制にとって敵であるならば、なぜ、旧人類はミュウを生み出す遺伝子を排除しないのか。なぜミュウが産まれる可能性を残し続けているのか。それをキースは疑問に思っていた。原作でも劇場版でも、クライマックスで人類を統べていたグランドマザーが倒された後に、コンビュータ・地球(テラ)が登場し、ミュウの発生についての秘密を語っている。
 原作では、ミュウは自然発生的に生まれている。この世界での社会システムをSD体制と呼ぶのだが、そのSD体制が始まる前にミュウは生まれはじめており、学者の大半がミュウがヒトの主権を握るべきだと考えていた。しかし、政治家達がそれを拒絶したため、旧人類を生かすかたちでSD体制がスタートした。学者達は自然に生まれてくるミュウを抹殺するのは、神を冒涜するのに等しいと考えており、それがミュウが生まれる可能性を残す事になった理由であるようだ。旧人類かミュウか、優れている方が生き延びるべきだという考えもあったのだろう。人々は、旧人類とミュウが戦う事を予想しており、その戦いにミュウが勝った場合に、人類の主権を彼らに渡すためにコンビュータ・テラを作ったのだ。
 クライマックスで、キースは、ミュウが「自然に」生まれたきたのを知り、それをきっかけにして、カタストロフを止める能力を持ったコンビュータ・テラの活動を止めてしまう。ここでのキースの心情は解釈が難しいが、彼の中で、自然に生まれ、自分達の力で生きてきたミュウと、ヒトを縛りつけている体制が、真っ向から対立する概念になった。それで体制を否定するために、それを象徴するコンビュータ・テラを止めたのだろう。
 一方、劇場版では、ミュウは人為的に生み出された存在だった。劇場版のコンビュータ・テラのセリフを引用しよう。「死滅しようとする地球を救うために人類は、生命の誕生を完全管理するSD体制を作った。しかし、それがパーフェクトなものであるという確信はなかった。だから、生命を誕生させるプロセスに、正反対の因子を組み込んだのだ」。正反対の因子とは、ミュウの事だ。ヒトが未来で生き残る可能性を高めるため、それまでと違った新しい人類として、ミュウを造ったのだろう。劇場版のミュウの設定は、恩地監督の「やっぱり人類がどうなってくかという事に興味があって、ミュウも人間のひとつのかたちなのではないかという意識があった」という発言とリンクしているはずだ。
 やや余談めくが、原作のコンビュータ・テラの活動を止める場面で、キースはミュウについて「…彼らは自然に生まれてきた——“神の領域”から」と言っている。前の場面で、ヒトが地球の自然を破壊した事について「人間は“神の領域”に手をつけた」と彼は語っており、それを受けて「“神の領域”から」と言っているわけだ。実は、この“神の領域”という言葉は連載時にはない。総集編のかたちで原作がまとめられた時に、加筆が行われており、その段階で書き足されたものだ。よりテーマ性を強く打ち出すために、足された言葉なのだろうと思う。

第42回へつづく

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(09.01.08)