アニメ様365日[小黒祐一郎]

第46回 『サイボーグ009 超銀河伝説』

 『サイボーグ009 超銀河伝説』は1980年12月20日に公開された劇場作品。いわずとしれた石森(現・石ノ森)章太郎の代表作『サイボーグ009』を映像化したものだ。同年の春まで、日本サンライズ(現・サンライズ)がアニメーション制作を担当したTV第2シリーズが放映されており、当時は、その劇場版だと思っていた。だが、『サイボーグ009 超銀河伝説』の制作は東映動画(現・東映アニメーション)であり、スタッフは別チームだ。メインキャストもTV第2シリーズと一部違っており、改めて考えると、TV第2シリーズの劇場版という位置づけとしてしまっていいのかと思う。オフィシャルにはどうなっているのだろうか。
 東映は、1980年春に『地球へ…』、同年夏に『ヤマトよ永遠に』、同年末の『サイボーグ009 超銀河伝説』と、立て続けに宇宙物の劇場アニメを公開。この年、僕達は学校の長期休暇のたびに、映画館で宇宙物を観ていたわけだ。映画館に行く前から「どうして、サイボーグ戦士が宇宙に行くんだ?」と少しばかり違和感を感じていた。ゼロゼロナンバーのサイボーグは、死の商人であるブラックゴースト(黒い幽霊団)が、戦争の道具として作らせたものだ。宇宙での活動もできるようだが、僕は、基本的に地上で戦うヒーローだと思っていた。彼らが宇宙船に乗って銀河の彼方に行くというのが、なんだかピンとこなかった。008なんて水の中で能力を発揮するんだから、宇宙に行っても仕方ないじゃん、と思った。いや、それ以前に『サイボーグ009』は、この劇場版の時点で原作が発表されてから15年も経っており、昔のヒーローを無理に、流行の舞台である宇宙に行かせているとも感じたのだろう。
 この映画のキーとなるのは、宇宙の中心にあるという超エネルギー、ボルテックスだ。コマダー星のコルビン博士はそれをコントロールする理論を発見した。ボルテックスを欲するダガス星の帝王ゾアはコマダー星を攻撃し、コルビン博士を誘拐。そして、博士の息子であるサバは、助けを求めて地球に飛来した。彼と遭遇したサイボーグ戦士達は、サバが乗ってきた宇宙船イシュメールで、銀河に旅立つのであった。というのが物語の発端。その後、サイボーグ戦士達はファンタリオン星でタマラ女王と出逢い、ゾアの本拠地であるカデッツ要塞星へ向かう。
 ロードショー時に劇場で観ているのだが、この映画に関しては、内容をよく覚えていなかった。いい機会だと思って正月休みに観返してみた。今年の元旦は、朝から『サイボーグ009 超銀河伝説』だった。観直して分かったのだが物語が薄い。2時間10分の映画だが、ストーリーは80分くらいで消化できる内容だ。特に、宇宙に行くまでの部分は展開が遅い。
 サイボーグ戦士達が乗り込んだイシュメールは、海から発進する。どう考えても『さらば宇宙戦艦ヤマト —愛の戦士たち—』の影響を受けた場面だが、今回観返した時に、不覚にもちょっと感動してしまった。これは刷り込みでもあるのだろう。劇場アニメで、宇宙船が発進して音楽が盛り上がると、感動するように刷り込まれているのだ。同世代には似たような人が結構いるのではないかと思う。ここでかかるのが町田義人が歌う挿入歌「さらばとは言わない」。今、書いていて気がついたけど、この歌のタイトルも『ヤマト』的だ。同シークエンスでは、離れていく地球に向かって、それぞれのサイボーグ戦士達が「あばよ、俺のニューヨーク」等と、故郷への別れの言葉を残す。それもよかった。この映画で一番いいシークエンスだ。
 観返して、ちょっと意外だったのが、9人のサイボーグそれぞれに、見せ場があった事だ。一番出番がなさそうな008も、前半でサバの宇宙船を調べるシーンで海に潜っているし、ファンタリオン星では湖の中での戦闘がある。サイボーグ戦士が宇宙に行った事については、やはり、少し違和感があった。航行中にサイボーグ戦士達が、なんとなく手持ちぶさたな感じなのだ。指揮官役であるギルモア博士が同行していないため、しまりがないのかもしれない。
 主人公達がサイボーグである事が活かされる展開もあった。009達がカデッツ要塞星に小型シャトルで向かう際、敵に気づかれないようにするために、近くにある中性子星のパルサーの周期とシャトルが出す全ての音を同調させる必要があった。シャトル搭乗者の心臓の鼓動も、パルサーの周期と合わせなくてはいけない。それができるのはサイボーグである彼らだけなのだ。かなり無茶なアイデアだと思うが、制作者がサイボーグ戦士の設定を活かすために苦心をしたのがしのばれる。
 映像的な事に触れておくと、公開当時は、撮影効果に力を入れているのが売りだった。ロードショーで観た時には「やたらと光っている映画」だと思った。作画に関しては、キャラクターが端正であり、乱れが少なかった。これは作画監督の山口泰弘の持ち味で、同年春に公開された『世界名作童話 森は生きている』も同様だったはずだ。
 『サイボーグ009 超銀河伝説』で一番話題になったのが004の死だろう。009達を救うために、カデッツ要塞星で敵の攻撃を受けて、体内に仕掛けられた原爆で自爆するのだ。公開前に、死ぬ場面の連続写真が、アニメ雑誌に見せ場として掲載されていた。予告編にもそのカットがある。だから、映画館に行く前から004が死ぬ事は分かっていた。登場人物の死で物語を盛り上げるなんてよくある事なのだが、僕にはまだ『さらば宇宙戦艦ヤマト —愛の戦士たち—』のダメージが残っていて、ああ、『サイボーグ009』もそういった事をやるのかと思い、ちょっとがっかりした。今観返すと、004があの場面で死ぬ必要はなかったのではないか、それまでサイボーグ戦士はもっと大変なピンチを乗り越えてきたのではないか、と思ったりもする。
 この映画には、あるどんでん返しがある。30年も前の作品だから、ラストシーンについて触れても問題ないだろう。もしも今後観るつもりの方は、以下を読まないように気をつけていただきたい(他の作品のラストについては平気で書けるのに、なぜかこの映画のラストについて書くのは躊躇してしまう)。壮絶な死を遂げたはずの004が、ラストシーンで、ひょっこりと生き返ってしまったのだ。それは「ひょっこり」としか言いようがない。何事もなかったかのように、「よお」と言って仲間の元に戻ってきた。その後で、004が復活した秘密が説明される。クライマックスで009はボルテックスと同化し、ボルテックスの力を使ってゾアを滅ぼした。その時に、彼は004の復活も願っていたのだ。
 ラストシーンでの驚きはそれだけではなかった。004が大変な事を言い出したのだ。彼は復活した時に、生身の人間になってしまった。そのため、ギルモア博士に再びサイボーグにしてほしいと告げたのだ。人間とサイボーグの関係は『サイボーグ009』の重要な問題であるはずだ。葛藤やドラマがあって、結果的に再びサイボーグになる事を選ぶのなら、僕もすんなり受け止められたかもしれないけれど、あまりにもその場面はノリが軽かった。驚いたし、なにか納得できないラストだった。
 さらにこの話には続きがある。『サイボーグ009 超銀河伝説』がTV放送された際、ラストの004が復活するシーンが、バッサリとカットされたのだ。恐らくはラストシーンが不評であり、それを受けた改変だったのだろう。確かに生き返ったのには不満を感じたが、カット版の終わり方も不自然であり、それにも釈然としないものを感じた。

第47回へつづく

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(09.01.16)