アニメ様365日[小黒祐一郎]

第109回 TV『マクロス』と近親憎悪

 10年くらい前、何かの理由でTV版『超時空要塞マクロス』を観返して、自分がこの作品に対してネガティブな感情を持っている事に気がついた。一番嫌だったのが、一条輝の言動や、彼を中心にした恋愛模様だった。この話は、同年輩のアニメファンと話しても、同意してもらった事がない。先日も、それを話して「小黒さん、そんな事を考えているの?」と言われてしまった。『マクロス』に関して、こんな感情を抱いていたのは、日本広しといえども、僕だけかもしれない。
 輝は、ミンメイに呼びかける時に「おたく」と言う。ビデオで観返すと、呆れるくらいに「おたく」を連発している。ちなみに、アニメファンの呼称としてオタクという言葉が定着するのは、ずっと後の事だ。輝が「おたく」という言葉をミンメイに対して遣うのは、彼女に対して距離をとっているからだろう。ナチュラルにアプローチできないから、名前を呼ばずに「おたく」と言ってしまう。可愛い格好をしてきたミンメイに対して、輝が「へえ、女の子みたいだ」と、分かったような分からないような冗談を言った事がある。それが、いかにも女の子慣れしていない感じだった。10年前に観返して、そういったやりとりを身悶えするほど恥ずかしいと感じた。また、輝はフォッカーや未沙に対して、下から見上げた感じで喋っていた。下の立場から話しているのに、妙に態度がふてぶてしい。そういったところも、何だか嫌だと思った。
 輝、ミンメイ、未沙の恋愛模様も、子供じみていると思った。フォッカーとクローディアの関係は、劇中では大人の恋人同士として扱われているが、むしろ、頑張って大人っぽく描こうとしているように見えた。スタッフに対して、非常に失礼な事を書いてしまうが、まだ人生経験に乏しい人達が、想像で異性や恋愛を描いているように感じられたのだ。
 どうして、そういった部分をネガティブに感じるのか、しばらくして気がついた。近親憎悪だったのだ。要するに、一条輝が、あまりにも10代の頃の自分達に似ていたのだ(ここはあえて「自分」に「達」をつけさせてもらう)。人間関係に不器用なところも、ふてぶてしいところも(さらに言えば、自分が人間関係に不器用であるのに気づいていないところも)、あの頃の自分達にそっくりだ。恋愛模様についても同様で、『マクロス』本放送当時の自分達の、人間的な未熟さが思い出されていたたまれない気持ちになった。自分は『マクロス』のスタッフでも何でもないのに、そのように作った事を、自分自身の若気の至りのように感じてしまった。
 そして、デ・カルチャーの意味にも気がついた。作品内における意味ではなくて、自分達にとっての意味について気づいたのだ。ゼントラーディ人は、地球人の男女がキスをしているのを目撃すると、それに驚いて「デ・カルチャー」と叫んでいた。僕達は、それ見て笑っていたのだけど、あれをギャグとして喜んでいたのは、当時の僕達がウブだったからだろう。今の若い人が、TVの『マクロス』を観て、同じように喜ぶとはちょっと思えない。シリーズ後半になると、ゼントラーディ人同士が「文化しようぜ」と言って、キスをしたりするが、それを面白がる感覚もまた同様。『マクロス』当時の若者は、現在よりも恋愛に関してオクテで、その中でも、アニメファンはそちら方面に関して遅れる傾向にあったはずだ。異性や恋愛に興味はあるが、オクテであった僕達が、自分達より明らかに異性や恋愛に関して遅れていたゼントラーディ人を笑っていたわけだ。またまた失礼な事を書いてしまうが、そういった「デ・カルチャー」関連のアイデアも、作り手の異性や恋愛に対する感覚を反映したものだったのだろうと想像している。
 逆に言えば『マクロス』は、あの頃の僕らの気分を、見事に反映した作品なのだ。本放送時には、輝のミンメイに対する距離の取り方を嫌だなんて思わなかったし、恋愛模様を恥ずかしいなんて思わなかった。ごく普通のものとして受け止めていた。当時の自分にフィットしていたのだろう。年齢を重ねて、ある程度、自分を客観的に見られるようになったところで、恥ずかしいと感じるようになってしまった。
 ここ数回の原稿を書くために、TV版『超時空要塞マクロス』をDVDで観返した。10年前に感じたネガティブな感情は、ほとんどなくなっていた。さらに年齢を重ねたせいだろう。「ああ、あの頃の自分達はこんなだったよなあ」という懐かしい気持ちで観た。

第110回へつづく

超時空要塞マクロス メモリアルボックス (期間限定生産)

カラー/990分/片面2層/10枚組/スタンダード/ドルビーデジタル(モノラル)/
価格/39900円(税込)
発売元/バンダイビジュアル
販売元/バンダイビジュアル
[Amazon]

(09.04.17)