第134回 『完結編』の沖田と古代
前回、『宇宙戦艦ヤマト 完結編』が「『ヤマト』が終わる映画」に相応しい内容だったと書いた。古代進ではなく、沖田十三がヤマトと共に海に沈んだのが、そう思った理由のひとつだ。「面白いかどうかは別にして、『さらば』より、こちらの方が正しいな」と、ずっと思っていた。最近になって、どうして沖田でなくてはいけなかったのかが分かった。沖田と古代の世代の話だ。
TV第1シリーズ途中で、艦長代理を命じられてから、古代はずっと艦長代理のままだった。第3TVシリーズ『宇宙戦艦ヤマトIII』でついに艦長となったが、そのシリーズで、ヤマトはガルマン・ガミラスに敗れて、捕獲されてしまった。『完結編』冒頭でも彼は艦長なのだが、判断を誤って、多くの乗組員の命を失ってしまい、その責任をとって辞表を出す事になる。そこで、沖田が復活するという流れだ。そして、『完結編』ラストで、沖田がヤマトと運命を共にする。
古代が艦長をやるほどには人間が成熟していないから、沖田が出てきたのか、あるいは沖田を登場させるために、古代の未熟さを描いたのか。どちらだったとしても、その展開は納得できた。沖田が出てきて指揮をとると、「ああ、やっぱりヤマトの艦長は沖田だな」と思ってしまう。多分、古代には覚悟が足りないのだ。
西崎義展の生年が1934年、松本零士の生年が1938年。彼らの少年時代、あるいは幼児の頃に太平洋戦争があったわけだ。厳密には、彼らは戦中派とはいえないのかもしれない。僕には、彼らと他のメインスタッフが、戦争というものに対してどんな感情を抱いているのかについては、想像するしかないし、ここでそれに触れはしない。ただ、彼らのかつての戦争に対する想いが『宇宙戦艦ヤマト』シリーズを支えていたのは間違いないだろう。何しろ太平洋戦争の戦艦を宇宙に飛ばして、活躍させるアニメだ。彼らが憧れていたものの象徴がヤマトであり、理想とする男性像が沖田なのだろう。
「いや、それは違うよ」と言われるかもしれない。戦中派とか、戦後育ちとか、ひとくくりにするのは乱暴だという意見もあるだろう。それは分かって書く。以下は、おおづかみなイメージで、キャラクターを捉えた話だ。歴戦の勇士である沖田は、理想化された戦中派の男性であり、そして、古代は戦後育ちの青年だったのだろう。1970年代に「戦争を知らない子供たち」という歌が流行ったが、古代も戦争を知らない子供の1人だった。
古代は地球がガミラスから攻撃を受けている中で育っており、その意味では、彼は戦中派だ。少なくとも、第1シリーズ途中までは、ガミラスを憎んでいた。しかし、歴代作品で描かれた彼のイメージをまとめると、戦後育ちの青年になると思う(いつか機会があったら、そういった点を気にしてTV第1シリーズから観返してみたい)。第1TVシリーズ24話で、自分達が滅ぼしたガミラス星を見て「我々がしなければならなかったのは、戦う事じゃない。愛し合う事だった」と言った彼は、僕の感覚では、自分達と同じ戦後の青年だった。だからこそ、古代の言動に共感できた。本来的には島や真田といった他のクルーの事も考えるべきなのだが、ここは話を分かりやすくするために、沖田と古代に話を絞る。
『完結編』で古代が犯したミスとは、アクエリアスのせいで水没したディンギル星の人々を救出するために、その星に降下した事だ。彼の命令のために乗組員の多くが死んでおり、しかも、それで救う事ができたのは1人の少年だけだった。その時の古代は、後先を考えずに、勢いで判断しているようにみえる。熱血漢の彼らしい失敗だ。そして、危険を承知で人命救助しようとしたのが、いかにも戦後育ちの青年らしいと、僕には思える。『完結編』の中盤では、負傷している古代が、敵を1人で追尾しようとする。その時、彼を心配した雪がナビゲーターとしてコスモ・ゼロに乗り込んだ。彼らが任務にそういった男女の関係を持ち込む事は、『完結編』以前にもあった。それも現代っ子らしいと思える。沖田の世代の男女なら、そんな事は決してやらないだろう。
第1シリーズを観ていた時には、古代進は成長して、いずれは沖田のような男になるのだろうと思っていた。だが、そうはならなかった。次の作品になっても、その次の作品になっても、古代は戦後育ちの甘さを抱えていたと思う。『ヤマトIII』で艦長になっても、古代は、どこかヤンチャなところを残していた。だが、それが彼の魅力でもあった。沖田になりきれない古代が、沖田とイメージが重なるヤマトに乗り込むというところに、『さらば』以降の『ヤマト』の面白さがあったのかもしれない。
『完結編』でヤマトを自沈させる事について話す場面で、沖田は古代に対して、雪を愛して、2人の子供をつくれと言う。それが古代に残された戦いだ。それが大勢の人の幸せに繋がり、本当に素晴らしい世の中をつくるのだと。沖田は「自分が死んだ後は、お前が地球を護れ」とは言わなかった。『完結編』までの物語で、結局はヤマト=沖田であり、古代は沖田の代わりにはなれなかったという事が描かれ、この場面の沖田の言葉で、それがはっきりした(沖田の言葉は、いつまでもアニメなんか観てないで、自分の人生の中で幸せをつかめ、というファンへのメッセージでもあるのだろう。それについては、当時「余計なお世話だ」と思ったはずだ)。
古代が沖田になれないというのは、同じような戦後育ちの僕達が、沖田になれないという意味でもある。僕は、自分が沖田のような男性になれるかもしれないとは思っていなかったが、憧れはあった。今、『完結編』を観返すと、沖田が古代に対して、雪とごくふつうの幸せを育てろと言う事について、ちょっと寂しさを感じる。だけど、それと同時に「まあ、そうなんだろうな」とも思う。戦争を知らない子供達は、ヤマトの艦長にはなれなかった。ヤマトの艦長に相応しいのは、理想化された戦中派の男性である沖田十三だけだった。そして、その沖田はヤマトと共に沈んだ。「『ヤマト』を終わらせるための映画」に、これ以上、相応しい内容はないだろう。
第135回へつづく
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(09.05.28)