第199回 『とんがり帽子のメモル』が失速した理由
ながら観ではあるが、この1週間ほどで『とんがり帽子のメモル』を全話観直した。意外なくらい本放映当時と印象は変わらない。作品の世界観、ビジュアルは素晴らしく、個々のエピソードにも傑作は多い。当時面白いと思った話は、今観ても面白い。ではあるが、シリーズ後半はグタグタになっていった。後半も、各エピソードや、個々のシーンでいいところはあるが、失速しているのは間違いない。
失速した理由はいくつか考えられるが、今回ひとつ気がついた事がある。『とんがり帽子のメモル』という作品は、25話「二人を結ぶ風の手紙」で描くべき事を描き切ってしまったのではないか。病弱で内にこもりがちだったマリエルが、メモルと出会い、2人で色々な経験をするうちに元気になり、生きる事にも前向きになっていく。『とんがり帽子のメモル』前半は、マリエルとメモルの関係性と、それによるマリエルの変化を描いていた(ある理由があって「成長」という言葉を使いたくないので、ここでは「変化」と書く)。マリエルの変化は、健康になっただけではない。24話でサンロアーヌ学園での生活を始めたマリエルが、グレイス達のいじめを軽くかわす描写がある。シリーズが始まった頃の彼女には考えられなかった反応であり、つまり、ここまでの物語で、マリエルはそんな強さを身につけていたわけだ。そして「二人を結ぶ風の手紙」では、メモルとの結びつきがいかに深いものであるかが描かれている。関係性のドラマはここでピークを迎えている。テーマ的な事を考えても「二人を結ぶ風の手紙」が『とんがり帽子のメモル』の最終回であっても構わないくらいだ。
25話でメモルとマリエルの関係性、マリエルの変化を描ききったのなら、26話以降は別の描くべきものが必要だった。だが、それが用意されなかったのだろう。描くべきものが見つからないまま、シリーズ後半の物語が進んでしまった。メモルがサンロアーヌから戻った38話以降も、今ひとつ焦点が絞れていない印象があるのは、描くべきものを喪失しているからでもあるのだろう。勿論、個々のエピソードごとに描くべきものを見つけて、作っていくやり方もあるし、そうしているエピソードもあるのだが、多くはない。グレイスの記憶喪失にはじまる終盤の展開と、最終回のグタグタ感は、それとは別の問題だ。観直すと、ストーリーを練らずに制作進めてしまっている印象だ。何かの理由で時間がなくなり、慌てて作ってしまったのではないか。
東映動画(現・東映アニメーション)は、監督制で作品を作っているわけではない。東映にはシリーズディレクターという役職があるが、他制作会社の監督ほどの権限はない。シリーズディレクターは、あくまで演出家のリーダーという立場であり、例えばストーリーの決定権は、シリーズディレクターではなく、プロデューサーにある。プロデューサー主体の作品作りがよくないと言いたいわけではないし、『とんがり帽子のメモル』が迷走したのをプロデューサーだけの責任だとも思わない。だが、プロデューサー主体であった事が、企画段階や制作初期にあった面白さから、遠のいていった理由のひとつなのだろうと思う。たとえば、他社の作品で、監督が主体になって企画を進めたオリジナル作品であったなら、視聴率対策による路線変更があったとしても、ここまで迷走しなかっただろう。
東映のシステムでやったからよかったところもある。東映のシステムだから、佐藤順一や貝沢幸男といった若手が、思う存分に腕を振るう事ができたのだろう(シリーズディレクターの権限が少ないぶん、各演出家が個性を出しやすい)。『とんがり帽子のメモル』は美術スタッフとアニメーターがメインになって、企画をスタートさせた作品だが、アニメーターはともかく、美術スタッフがメインになったのは、美術スタッフの存在感が強い東映ならではだろう。監督や脚本家が主体になって作られた企画でないのも面白い。大勢の才能によって作られたオリジナルだから、あれほど新鮮な作品世界やビジュアルが生まれたのだろう。カリスマ的なクリエイターが1人で作ったオリジナル作品だったら、あの感じは出ないと思う。
放映当時も今も、『とんがり帽子のメモル』について簡潔に言葉にすると、以下のようになる。「凄い作品で、大好きな作品だ。だけど、残念なところも多い作品だ」。
第200回へつづく
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(09.08.28)