第253回 『魔法のスター マジカルエミ』最終回3部作・続き
『マジカルエミ』では、1話からエミリー・ハウエルという伝説のマジシャンが姿を見せている。エミリーは1930年代に活躍した人物であり、本人は劇中に登場しない。舞はエミリーのファンであり、自分の部屋に彼女のポスターを貼っている。エンディングのファーストカットでも、エミリーの写真が鏡に映っている。2話では舞の祖父母が、エミのマジックを見てエミリーを思い出している。エミを彼女の再来のようだと思ったのだろう。エミの名前も、エミ自身がエミリーからとったものだ。そのエミリーの存在が、最終回3部作のキーになった。
毎週のエンディングに、いかにもいわくありげにエミリーが登場しているのを観て、彼女について、舞の前に魔法を授かった女性、つまり、先代マジカルエミではないかと予想していたファンは多かっただろう。僕も、漠然とではあるが、エミと何か因縁があるんだろうと思っていた。
そう思っていたからこそ、37話「ためらいの季節」で判明したエミリーの正体に驚いた。国分寺がマジカラットに持ち込んだ記録フィルムには、11歳のエミリーと、16歳になってマジシャンとして活躍しているエミリーが映っていた。16歳のエミリーは立派なマジシャンだったが、11歳のエミリーは、ステージでマジックを失敗してしまうような普通の少女だった(ちなみに、この回の演出は望月智充。劇中で挿入されたエミリーのフィルムにはフィルム傷がたっぷり。しかも、上映開始時にピントが合わない、コマ落ちする等、アナログ制作時代のアニメとしては、驚くくらいリアルな描写になっていた)。
舞はフィルムを観た事で、エミリーが生まれながらの天才ではなく、努力で大成した女性である事を知り、それが、彼女が改めてマジックの勉強を始める事につながったわけだ。こうして文章にすると、説教臭い作品のようだが、前回書いたように、そういった内容を押しつけがましくなくドラマにしている点が素晴らしい。
『マジカルエミ』という作品は、物語面でも演出面でも、ごく当たり前の人間のドラマ、ごく当たり前の日常を描き、そこから何か素敵なものを掬い上げようとしていた。まるで、普通の人間の普通の営みの中にこそ、大事なものがあるのだと、作り手が主張しているかのようだった。だから、1話から引っ張ってきたエミリー・ハウエルの正体が、魔法によって生まれたスターではなく、普通の少女——努力の人であった事が、非常に納得できた。逆に言えば、エミリーの正体が『マジカルエミ』がどんな作品だったのかを示していた。
38話という話数を使って、『マジカルエミ』という作品は、簡単に夢をかなえてくれる魔法なんて、本当は必要ないんだという結論にたどり着いた。それは魔法少女ものというジャンルを否定しているようにも見えるが、そうなのだろうか。単純に否定したのではなく、魔法というものについて、きちんと向き合って、考えたからこそ出た結論だと思いたい。「第247回 『魔法のスター マジカルエミ』15話」で、スタジオぴえろ(現・ぴえろ)の「魔女っ子シリーズ」を「ウルトラシリーズ」になぞらえる冗談について書いたが、ウルトラシリーズで、最終的にウルトラマンに頼らずに、地球は人間の手で守るべきだという結論にたどりつくのと同じ事だろうと思う。
第254回へつづく
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(09.11.19)