第261回 『タッチ』最終回とラス前
僕は『タッチ』に関しては、原作も連載で読んでいたし、アニメ版も毎週観ていた。アニメ版は原作にある楽屋オチは全てカットしており、細かいギャグもカットする傾向があったはずだ。そのため、全体にややシリアス寄りになっていた。
ギャグのカットと言えば、原作だと高校3年の決勝戦前に、雨で試合が延期になったのを、滝沢昇が報せにくるという展開があった。滝沢昇とは『タッチ』と同時期に「週刊少年サンデー」で島本和彦が連載していた熱血ギャグアクションマンガ「炎の転校生」の主人公だ。熱血キャラらしく、雨の中を全速力で走ってくる。3ページも使った大ネタだったが、アニメでは当然のようにカットされた。アニメでは女子マネージャーの由加が、試合の順延を告げにくる。孝太郎達の呑気な対応のために、むしろ和気藹々とした場面になっていた。そういったギャグをカットしたのは、フィルムとしてまとまりのいいものにするためだろう。紙媒体であるマンガならクスリと笑ってすむギャグが、フィルムにすると、作品のトーンを壊すものだと判断したのだろう。作り手の美意識も関係しているのかもしれない。
そういった差違はあったけれど、『タッチ』は見事な映像化だった。特に素晴らしかったのは、原作の空気感を再現している点だった。細かく観ていけば、原作が表現している空気感と、アニメ版の空気感は別物かもしれないが、当時は全く同じだと思った。正確に言うと、放映が続くうちに演出的なグレードがあがり、原作の空気感を表現できるようになっていった。シリーズ後半は「すげー、原作の“あの感じ”が、そのままアニメになっているよ!」と思って、感心しながら観ていた。
『タッチ』における原作とアニメの違いでいうと、ファンの間でよく話題になるのが、最終回の内容が違うという事だ。原作では地方大会決勝の後で、アイドルの住友里子というキャラクターが登場し、達也と絡む。そして、甲子園大会の開会式の日、達也が南の前に現れて、河原で愛の告白をする。それに対して、アニメの最終回では、住友里子は名前のみで本人は登場しなかった。達也は告白するために開会式をさぼる事はなく、電話で南に告白する。
当時の「アニメージュ」に最終回についての記事が掲載されていた(1987年3月号 vol.105)。杉井ギサブロー総監督のコメントによれば、原作は連載がのびてしまって、あだち充が当初に考えていたのとは違うラストになってしまった。杉井監督は、TVの『タッチ』最終回は、最初に予定されていたラストにするつもりだと語っている。
そういった事前情報があったので、最終回が原作と違う事について、僕は驚かなかった。住友里子は原作でもあまり意味のあるキャラクターではなかったので、カットしたのは理解できたし、告白は電話でも構わないと思う。ただ、アニメ版の最終話に関しては、作劇も、演出もシャキっとしていなかった。それが残念だった。ラス前までの須見工との決勝戦は『タッチ』の集大成ともいうべきテンションの高い仕上がりだった。決勝戦でスタッフが燃え尽きてしまったのかもしれない。
シリーズ終盤には、もうひとつ大きな原作の改変がある。アニメでは、ラス前の100話「勝つぞ明青! 甲子園は 俺たちを待っている!」。須見工との決勝戦の延長10回の裏、達也と、ライバル新田明男の最後の対決だ。原作では、死んだ和也(と思しき幻)が力を貸してくれたおかげで、新田を打ち取る事ができたというかたちになっている(最後の一球を投げる寸前に、達也がマウンドに誰かいるのではないかと感じる描写もある)。
この展開には伏線がある。試合の序盤で、南と原田が、達也が力を貸してくれているのではないかと口にするところがあり、中盤では柏葉監督が、死んだ兄貴が、弟の夢や栄光のために力を貸してくれるわけがないと達也に言う場面がある。その後、和也をコピーしたような投球をしていた達也は、コピーをやっている自分に和也が力を貸すはずがないと考えて、自分流の投球に切り替えている(それを語るモノローグは、アニメのみにある)。
ではあるが、アニメでは最後の対決で、和也が力を貸す描写はない。その代わり、達也が最後の一球を投げる前に、彼の耳に、かつて和也と南の言葉が響く。「めざせ カッちゃん 甲子園! 浅倉南」と書かれた色紙が目に浮かぶ。和也も南も、達也に野球の才能があると言っていた。和也は、2年間、毎日練習すれば、達也は凄い選手になると言っていた。その言葉を思い出した達也は「今年で2年目!」と自分に言い聞かせ、新田に最後の球を投げる。
これはテーマに関わる大きな改変だ。アニメ版は、上杉達也が投手として成長し、南の夢をかなえるために、自分の力で甲子園を勝ち取ったかたちだ。ひとりの青年の成長にウエイト置いたクライマックスにしたわけであり、これはこれで正解だったと思う。
また、原作では達也が新田を打ち取るとるところで、空振りする新田を見せていない。代わりに、どこかのプールで、水着を着た女性がプールに飛び込む描写を挿入している。女性がドボンと飛び込んだ瞬間に、孝太郎のミットにボールが叩き込まれたという事なのだろう。前々回(第259回 『タッチ』の映画的な原作)で触れた、あだち充ならではの映画的手法だ。そして、いかにも、過去の熱血スポーツマンガへのアンチテーゼであった『タッチ』らしいクライマックスだった。
アニメでは、そういったインサートは行わず、正攻法の演出で対決を描ききった。そのため、より青春もの、より野球ものらしいクライマックスになっている。僕はこちらの盛り上げ方も好きだ。対決の直前に、孝太郎が他のナインに守備の指示を出す事で、新田を敬遠しようとしていた達也に対して、勝負するようにうながすところがある。アニメ版のその部分は、青春の一途さが感じられ、観るたびに、僕は涙腺がゆるくなる。
アニメ『タッチ』は、原作の映像化を見事に成功させた作品だったが、原作をそのまま映像に引き写した作品ではなかった。アニメスタッフの考えや美意識が入った別の作品だった。
第262回へつづく
(09.12.02)