第359回 原稿を書きはじめた頃
アニメージュで原稿を書きはじめた頃は、短い原稿を書くのにも猛烈に緊張した。「自分が書いた文章が、全国のアニメージュ読者の目に触れるんだ」と思ったからだ。大勢の人に読まれるものである事を意識して、緊張し過ぎるくらいに緊張した。
今の若い人は、仕事でなくても、ネットで書いたテキストが大勢の人の目に触れる事があるだろうが、僕がライターを始めた頃は、そんな機会はなかった。同人誌で原稿を書いても、読んでくれる読者は数百人だ。よく考えれば、数百人でも、数十万人でも、人に読んでもらうのに変わりはないのだけれど、当時の僕にとっては、同人誌と商業誌は、別次元だった。そんな緊張は、1990年代に入る頃まで続いた。
文章そのものはスラスラ書けた。少なくとも、仕事を始めた頃は「何を書くか」「どう書くか」で悩んだ事はなかった。文章テクニック的な事で、リテイクをくらった事は一度もない。ただ、いきなり書けたので、腕を磨こうとはしなかった。その頃に、文章の勉強をしておけば、もっと上手になっただろうとは思う。
仕事を始めてしばらくして、「どう書くか」で悩むようになり、次に「何を書くか」を考えるようになり、原稿が遅くなっていった。「どう書くか」については、文尾で悩んだのを覚えている。当時、僕はコラムっぽい原稿では、ですます調の軽薄な感じで書く事が多かったのだが、書き上がってから、自分の原稿の文尾が気持ち悪く感じられた。書きやすいスタイルで書くと、自分が気持ち悪く感じるという時期がしばらく続いた。ですます調の軽薄な感じは、椎名誠を意識していたのだと思う。その頃、椎名誠の文章を沢山読んでいたわけではないし、客観的に見れば真似にもなっていないと思うけれど、「あの感じがいい。あれでやってみよう」と思っていた。
書いていて思いだしたが、ある雑誌で、色んな雑誌の文体をネタにしている記事があり、オタク系雑誌の文体サンプルとして掲載されていたのが、自分の原稿を元にしたものに思えた。既存の原稿を再録する記事ではなくて、その文体を真似て書いた原稿を掲載した記事だった。自分の原稿が特殊だとは思ってはいなかったが、「アニメージュ」に載っているコラムなら、オタク系雑誌の文体サンプルとして扱われてもおかしくない。自意識過剰な僕の勘違いであるかもしれないが、とにかくそれが痛かった。
最初の数年は、手書きで原稿用紙に原稿を書いていた。当時のアニメージュ編集部では、ワープロを使っていた人はほとんどいなかったはずだ。手書き原稿時代は、原稿は文字数との格闘だった。例えば、レイアウトに16文字×18行と指定されていたら、その文字数きっちりに原稿用紙を埋めなくてはいけない。足りなくても、オーバーしてもいけないのだ。今は本作りの大半がDTPになり、文字数についても、パソコン上である程度は調整できるようになったが、当時は写植で版下を作成しており、文字数について、より厳密に考えなくてはいけなかった。
だから、原稿を書く際には「何を書くか」や「どう書くか」について考えるよりも、「いかにして指定された文字数に原稿を収めるか」で知恵を絞っている時間の方が長かった。短い原稿ならまだいいけれど、当時から僕は、長いインタビュー記事をやりたがっていた。例えば、見開き一杯のインタビュー記事を、手書きの原稿で、文字数きっちりにまとめるのは、大変な手間だった。指示された文字数にするために、原稿を削ったり、足したり。それを鉛筆と原稿用紙でやっていた。パソコン執筆とDTPの組み合わせになって、本当に楽になった。手書きの原稿だったら、「この人に話を聞きたい」のような連載を毎月やるなんて、きっと無理だったに違いない。
第360回へつづく
(10.05.06)