第417回 『迷宮物件 FILE538』
『迷宮物件 FILE538』は、『トワイライトQ』シリーズの第2巻として制作された作品だが、本編のどこを観ても『トワイライトQ』というタイトルは表示されていない(勿論、ビデオパッケージには「Twilight Q」のロゴが入っている)。まるで、『トワイライトQ』シリーズの1本などではなく、『迷宮物件 FILE538』というタイトルの単独作品であると主張しているようだ。
スタッフは原案・脚本・監督が押井守。キャラクターデザインは近藤勝也、作画監督は大塚伸治、美術監督は小倉宏昌。まるで劇場大作が作れそうな強力な布陣だ。音楽は、第1話「時の結び目」も本作も川井憲次が担当している。
登場人物は非常に少ない。私立探偵と、彼が調査している男、その娘の3人だけだ(本当に3人なのか? と突っむ方がいるかもしれないが、ここは3人としておく)。調査対象の男は、廃屋のようなアパートで、娘と共に暮らしていた。アパートも、男と娘も謎めいた存在だった。娘は航空機が好きであるようで、それを「おさかな」と呼んでいた。航空機が次々に消失する事件が起こっている。どうやら、航空機が消えたのはアパートの上空であるらしい。そして、航空機が空中で、錦鯉に変貌していくという強烈なビジョン。
多くのファンが、この作品を観て「またか!」とか、「わけが分からない!」と叫んだに違いない。これは「現実と虚構の物語」であり、「世界や自分の存在に対する不安の物語」であり、「主人公と少女の物語」であり、「繰り返される物語」だ。物語の途中で主人公は、自分が何者であったのかを思い出せない事に気づき、この夏はいつから続いているのだろうかなどと自問自答する。魚も出てくれば、鳥も出てくる(男のTシャツに「BIRD」とプリントされている。ちなみに娘ののTシャツは「FISH」だ)し、「立ち食いのプロ」なんて言葉も出てくる。
これまで押井守が繰り返し、この後も繰り返し続けるテーマやモチーフがパンパンに詰まっている。他の作品では、SFラブコメ、近未来ロボットもの、電脳アクションといった、ファンがとっつきやすい枠組みの中で「現実と虚構の物語」や「世界や自分の存在に対する不安の物語」をやっている場合が多いのだが、『迷宮物件 FILE538』には、そういった枠組みはない。彼が得意とするテーマやモチーフだけで構成されている。
物語の大半は、私立探偵が、男がワープロに残した文章を読みあげるというかたちで展開する。文章の内容は、私立探偵に対する呼びかけであり、男の回想である。それゆえ、この作品には会話というものがほぼない。大半が、中年男のネチっこいモノローグで埋めつくされている。映像に関しては動きのないカットが多いし、後述するように、画作りは極めて特殊なもの。普通のアニメを観るつもりで、この作品に触れたとしたら、面くらう事は間違いない。
僕も「押井さんは、またこれか!」と思いもしたけれど、同時に、充分にこの作品を楽しんだ。押井作品純度は高い。彼のテイストを楽しむという意味では、これが彼のベスト作品だと思っている。ミステリ仕立てで作ったのも、上手くいっている。主人公が暮らしている世界が虚構であるのに気づき、自分自身が誰だか分からなくなるだけでなく、さらにそこから2度のどんでん返しがあり、綺麗にオチがついている。短編ドラマとしても完成度が高い。
アパートで暮らしている男の、生活感がたっぷりの描写も押井作品らしい。さらに終盤で(どうしてそういった展開になるのかは、あえて説明しない)、男が『迷宮物件』のプロットについて説明をし、ある人物に「わけがわけがわからない。もっと普通の話にしてくれ」と言われるという自虐ギャグまである。
映像も素晴らしい。ドラマもマニアックだが、映像も負けないくらいマニアックだっだ。『迷宮物件 FILE538』では、実写の写真を加工して、背景を制作している。写真は、押井作品の常連スタッフとなる樋上晴彦が撮ったものだ。黒味の多いその背景は、ドキュメンタリータッチでありつつも、作り物的。ホラータッチでもある(写真そのものも、クールなタッチであり非常に魅力的だ。樋上晴彦が本作のために撮った写真は、DVD『トワイライトQ』に映像特典として収録されている)。そして、写真を使っていない場面の背景も、負けないくらいしっかりしたものだった。
作画もいい。原画としてクレジットされているのは、遠藤正明、大塚伸治、河口俊夫、高坂希太郎、近藤勝也、二木真希子の5人だ。動くカットは少ないのだが、動かすカットは、非常に丁寧に動かしている。キャラクターも日常芝居も、こってりしていて生々しい。航空機が錦鯉にメタモルフォーゼする場面も凄いが、探偵が男の部屋に入った場面で、布団の上に錦鯉がいて(どうしてそこに錦鯉がいるのかも、この原稿では説明はしない)、パクパクと口を動かしているのだが、その動きが非常にリアルであり、印象に残るものだった。『うる星やつら』的な作画でもなければ、後のProduction I.G的な作画でもない。こういったタイプの作画も、押井作品に合っている。
押井ファンの中でも少数意見だろうとは思うが、僕は『迷宮物件 FILE538』が大好きだ。マニアックな方向に振り切っているところがいい。
第418回へつづく
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(10.07.27)