第457回 「逆襲のシャア友の会」(後編)
アニメージュ1991年4月号(vol.154)の『機動戦士ガンダムF91』特集は自分にとって力の入った仕事だった。富野作品の素晴らしさを世に示したかったし、自分の中で富野作品に決着をつけたかった。前回も触れたように特集は4部構成で、PART1は本編の画を使って『F91』の紹介。PART2「THE富野イズム それは『ガンダム』における娯楽である」は、富野監督の作家性に突っ込んでいくインタビューだ。このパートではそれまでの富野作品の名場面も掲載。その写真選びは自慢できるくらいに頑張った。PART3「それぞれの視点で8人が語る富野イズム」では、押井守、田中芳樹、会川昇、星山博之、今川泰宏、高橋良輔、遠藤明範、ゆうきまさみといった方達に、富野監督と作品に語っていただいた。PART4「そして『F91』の富野イズム」では、『F91』の絵コンテから富野監督のカラーが濃い部分を抜粋し、それを解説。要するに『F91』の特集ではなくて、富野イズムについての特集になっていた。PART1は他のライターさんが担当したが、PART2からPART4は僕が構成した。PART3のインタビューも、8人中6人の取材を担当したはずだ。
『F91』絵コンテでは、クライマックスにおいて主人公のシーブックが、ラフレシアが放つ光に鉄仮面の精神を感じとって「あれは、人の劣等意識の固まりじゃないのか?」と呟く。絵コンテのト書きでは、そのセリフについて「右の科白はCutされるであろう」と注がつけられている。セリフ自体も凄まじいし、わざわざカットするつもりのセリフをコンテに書き入れ、さらにカットされるであろう事を予告しているのも面白い(付け加えると、他にも『F91』には、そのようなト書きの面白い個所がいくつもあった)。カットされるセリフであるのは分かっていたが、PART4ではその部分のコンテも掲載した。『F91』は、『逆襲のシャア』に比べればセーブが効いた作品だったが、僕は『逆襲のシャア』的な作品として取り上げたかった。尖った部分を取り上げた方が、富野作品に肉薄できると思っていた。
特集の肝だったのが、PART2の富野監督へのインタビューだった。取材のテーマは「生々しい人間描写」「ペシミズム」「監督自身の考えや人生観が作品に反映されている事」の3点についてであり、それが娯楽作品であるロボットアニメにとってどんな意味があるのか、という事だった。ここで記事自体を丸ごと読んでいただきたいところだが、引用するにはボリュームがありすぎる。要約しよう。「生々しい人間描写」について、富野監督は、それはドラマを作る上でやらなくてはいけない最大原則であり、最小条件であると語っている。やって当たり前の事であり、また、それだけを制作テーマにするのは間違っている。『ガンダム』にはロボットという存在があり、それは観客に対して強い印象を残すものだ。それに対して負けないキャラクターや物語を作らなくてはいけない。その「ロボット」と「キャラクターのドラマ」の異種格闘技の面白さが、『ガンダム』の娯楽の構造となっている。ロボットに負けないキャラクターのドラマを構築するためにも、生々しさは必要である。
作品に「ペシミズム」の色があるのは、自分の性癖にそういったところがあるからだろう。ただ、厭世的な事が作品に出ないように努力してきた。『逆襲のシャア』については、かなりいやらしくそれが出ているが、セーブしたうえでああいったかたちにしている。インタビュアーである僕が、ペシミスティックな部分に気持ちよさを感じると言うと、それはよく分かる、自分自身もそうだからだと答えてくれた。それに付け加えるかたちで、我々は、ここ20年くらいで、現実的な親族の死に触れる機会がなくなってきたのではないか、現実の中で痛みを感じなくなってきたのではないかとし、少なくともドラマの中で人の死を正確に描けるならば描くべきだと思っていると語っている。それは娯楽につながるものではないけれど、提供すべきものは提供するべきだ。
「監督自身の考えや人生観が作品に反映されている事」については、例えば「人はどうあらねばいけないのか」といったテーマが作品にこめられている場合が多いのではないかという問いで始めた。それは自分自身にとってのテーマであり、それが作品のテーマとして現れている。しかし、作り手の考えが出過ぎる事は、娯楽作品にとってあまりよい事ではないと思っている。作品の細部にまで富野監督がそのまま出ているように思えるという問いについては、作家の持っているものは、その作品に現れるものであるが、作品の全てが作家の人格の反映であってならない。だから、自分と作品の距離については、意識的にとろうと努力しているが、それでも出てしまう。しかし、作家の人格が反映されていなければ、人は作品を観てはくれない。つまり、人が観たいのは他人がやっている事だ。昨年、TVで放映された『逆襲のシャア』を観て、自分で「わあ、よくやるよ、この監督は」などと思った。他人が観ても、そのように思ってくれるように作らなければ、誰も観てはくれない。自分は投げやりなセリフ、場つなぎのセリフを作らないようにしてきた。その結果が、自分自身が作品に出る事につながっているのだろうと思うと語ってくれた。以上で要約は終了。
記事中の「人が観たいのは他人がやっている事だ」については、文字数のために記事に反映できなかったが、もう少し話をうかがっている。例に挙がったのが、TVのバラエティ番組でやっていた、ごく普通の家庭の食卓を紹介するコーナーだ。「隣の家ではどんなものを食べているのか」。そういった視聴者の興味を満たすのが娯楽なのだ。そして、ドラマにおいても「他人が何をやっているのか」を見せるのが娯楽だ。他人に対する下世話な興味が娯楽につながるとも言える。『逆襲のシャア』で、周りに人がいる場所でクェスが「大佐、あたし、ララァの身代わりなんですか」とシャアに問う場面がある。説明するまでもないと思うが、ララァはシャアのかつての恋人であり、クェスはシャアが手元に置いている少女だ。その場に、なんともきまりの悪い空気が流れて、観客である僕は嗤ってしまう。富野監督の話を聞いて思いだしたのが、そのクェスが問う場面だった。なるほど、あの場面は富野流の娯楽であり、嗤っていい場面だったのだ。
ロボットアニメにおいては、キャラクターのドラマに、ロボットの存在に匹敵するくらいのパワーが必要だ。キャラクターのドラマとロボットの戦闘が拮抗するのところに『ガンダム』(=富野監督が手がけるロボットアニメ)の娯楽の構造がある。そして、強力なキャラクターのドラマを作るためにも、生々しさは必要だ。ペシミズムは富野監督自身の性癖であり、作り手の人格は作品に反映されるものだ。人格が反映されていない作品などは誰も観ない。作り手の人格がいかに作品に現れているのか、それもまた娯楽に繋がるのだ。僕がこのインタビュー記事に「THE富野イズム それは『ガンダム』における娯楽である」というタイトルをつけたのは、富野作品の魅力とは、すわなち、彼の独特な作品づくり、作品に反映された彼の人格にあるのだと主張したかったからだ。
このインタビューで、この時点での富野作品の全てを語ったとは思わないが、収穫は大きなものだった。富野監督の仕事について考える材料をたっぷり手に入れた。自分自身にとっては非常に満足できる取材ではあったのだが、読者に対しては不親切な記事だった。僕と多くの読者の間には、かなりの温度差があったはずだ。やるべきだと思ってやった記事であるので後悔はしてないが、客観的にみたら走りすぎだろう。それから、記事が上がった後で、担当編集に「富野さんが気持ちよく喋っている記事ではない」と指摘された。確かに、知りたい事を一方的に聞いているだけであり、やりとりに膨らみがない。そのため、読み物としてあまりに堅いものになっている。僕は今まで、数多くの取材をこなしてきたが、取材そのものについて何か言われた事はほとんどなく、その数少ない例がこの取材だ。
この1991年4月号の特集で、自分の中で『逆襲のシャア』に決着をつけたつもりだった。しかし、『逆襲のシャア』についての活動はまだ終わらなかった。今日の原稿のタイトルに(後編)とつけてしまったが、予想よりも長くなってしまった。もう少しこの話題を続ける。
第458回へつづく
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(10.09.24)