アニメ様365日[小黒祐一郎]

第470回 シャアの「ララァが母に……」発言

 シャアとアムロの会話は続く。「それで、それを私は迷惑に感じて、クェスをマシーンにしたんだな」というシャアの発言に対して、アムロが「貴様ほどの男が、なんて器量の小さい!」と突っ込み、それにシャアが「ララァ・スンは、私の母になってくれるかもしれなかった女性だ。そのララァを殺したお前に言えた事か!」と応える。この発言にはアムロも驚く。「お母さん? ララァが!?  うわっ!」。彼が「うわっ!」と驚いたのは、νガンダムのコクピットが光で包まれたためだ。次のカットを見ると、νガンダムが爆発したわけではないのが分かる。シャアとアムロの精神が、サイコフレームの光と共に、宇宙の彼方へ飛び去っていったように見える。ここでシャアとアムロの会話は終了だ。ナナイの反応から察すると、ここでシャアは死んだのだろう。ならば、アムロも一緒に命を落としているはずだ。その後、アクシズは地球から離れて、地球の人々がアクシズの光を見る。それが人の心の光であるのだろう。地上で赤ん坊が産声をあげる。シャアとアムロのどちらかが転生したともとれるし、死する者がいる一方で、生じる命もあるという意味にもとれる。T字型のサイコフレームの試料が地球の周囲を飛び、地球がサイコフレームの光に包まれる。そして、エンディングが始まり、『逆襲のシャア』は完結する。

 問題は「ララァ・スンは、私の母になってくれるかもしれなかった女性だ。そのララァを殺したお前に言えた事か!」と「お母さん? ララァが!?  うわっ!」のセリフだ。長く続いた口論が、このやりとりで終わっているのだ。このふたつのセリフが『逆襲のシャア』の結論を示すものであるのだろう。
 僕は初見時には、このやりとりの意味がまるで分からなかった。ララァに母になってもらいたかったらしいシャアの気持ちも分からなかったし、映画の最後でそれをシャアに言わせた事の意図も分からなかった。「えっ、何を言っているの?」という感じだった。何度か観返して、作り手の意図はある程度は想像できるようになったが、シャアの気持ちは理解できなかった。当時の僕は24歳だった。振り返ってみれば、24歳の僕はあまりにも子供で、このやりとりが理解できなかったのも仕方がなかったかもしれない。
 映画の中で、シャアがララァに母を求めていた事に、どんな意味があるかのは示されていない。何しろ、そう言った途端にシャアは死んでしまったようだし、アムロはその言葉に当惑しただけだ。ブライトやナナイは、シャアの発言を聞いていないので、それについてコメントはしていない。劇中でそのセリフを受け止めた者はいない。“サイコフレームの奇跡”が、シャアの言葉の意味について、何かを表現しているとも思えない。作り手が観客に「シャアはこんな事を言って死にました。あなたはどう思いますか?」と問うかたちになっているわけだ。ならば、このやりとりについて考えてみる事にしよう。

 『ガンダム』シリーズにおいて、最もクールであり、プライドが高く、戦士としても優秀であったシャアが、実は、かつて死んでしまった少女に母親的な存在になってほしいと望んでいた。これは間違いない。彼はその想いを抱いて、生き続けてきたのだろう。シャアの心にある一番大事なものは、10数年前に死んだ少女の存在だった。だから、彼はクェスに対しては勿論、ナナイにも心を許しはしなかった。心の底で少女に母親を求めているような男だったから、自分がクェスの父親代わりになる事を、想像もできなかったのだろう。ナナイには甘えていたが、彼女の言動には打算が見えた。単に甘やかしてくれるのではなく、こうしてほしいという要求もつきつけてくる。そんな事は生身の女性であるならば当然であるのだが、そのためにシャアは、ナナイが母親にはなれないだろうと思ったのだろう。
 おそらくは孤独な人生を送ってきたシャアにとって、安らぎを感じられる相手はほとんどおらず、ひょっとしたらララァは、その唯一の相手であったのかもしれない。人類の粛正も、シャアにとってやるべき事であったのは間違いないのだろうが、彼を突き動かしていたのは、喪ってしまったララァへの行き場のない想いだったのだろう。その気持ちを解消するために、ララァの死なせたもう1人の責任者であるところのアムロと戦って、完全勝利をおさめたかった。アムロを完膚無きまでに叩きのめしたいという気持ちが先にあり、それが発展してアクシズ落としにたどりついたのかもしれない。
 ララァが生きていた頃には、母になってほしいとまでは思っていなかった可能性もある。彼女が死した後に、想いが募り、母になってくれたかもしれないと思い詰めるようになってしまったと考える事もできる。また、ララァが母になってくれたかもしれないような女性だったというのも、半分は彼の妄想であるのだろう。シャアがララァと過ごした時間は短い。おそらくは、彼女のいいところしか見ていなかった。もしもララァが生き残り、ずっと行動を共にしていたら、嫌なところだって見えたはずだ。

 終盤の展開で、シャアの内側にあったものが次々に露わになっていった。身につけていたものが失われていき、裸になっていったわけだ。それで最後の最後に語られたのが、シャアはララァに自分の母親になってほしいと願っていたという事だった。「それがシャアという男だ」という事だ。
 あのシャアも、そんな人間らしい弱さを抱えていたという事だ。英雄であっても、ヒーローであっても、人間はそういった弱さがある。人間なんてそんなものだ。それについて「愚かだ」とは言いたくない。「弱さ」と書いてしまったが、それも違うかもしれない。自分がこの年になったから言える事ではあるが、シャアにとってのララァへの想いのようなものを抱えている人間は少なくないのではないか。想いを寄せる対象は「死んだ少女」ではなく、求めているのが「母」ではないかもしれないが、そういった捨てきれぬ想いというのは、世の中にあるだろう。ただ、それを口にする人は少ないのかもしれない。
 もうひとつ注目したいのが、アムロがシャアの発言に驚いている点だ。ここまでアムロは、シャアの考えている事が全部分かっているかのように描写されていた。シャアがアムロを気にしてきたように、アムロもシャアを意識して生きてきたのだろう。そんなアムロでも、シャアがララァに母を求めているとは、夢にも思わなかった。だから、「お母さん? ララァが!?」と驚いている。ニュータイプであっても、他人の心の奥底などは分からないのだ。映画の最後で、シャアとアムロも分かり合えていなかった事が判明した。皮肉にも“サイコフレームの奇跡”が起きている時に、またひとつの人と人の断絶が描かれた。そして、アムロという男が人生の最後に感じたのが、ライバルがそんな事を思っていたのか、という驚きだったというのは、なんとも虚しい話だ。

 シャアが、ララァに母を求めていた事は愚かではないけれど、その想いに囚われてしまって、鬱屈した人生を歩んでしまったとしたら、それは愚かだ。それをきっかけにして、人類の粛正をしようとしていたのなら、とてつもなく愚かだ。地球の重力に魂を縛られている人間の事を悪く言えないはずだし、人の心の光を見なくてはならなかったのはシャア自身ではなかったのか。
 シャアがそうであったように、人間とはちっぽけなものである。情けないところもあれば、愚かなところもある。この映画が描いてきた人間の愚かさの集大成がシャアなのだ。そして、その愚かさが悲劇を生む。ではあるが、この世にも“救い”があるはずだ。あってもらいたい。しかし、この映画は、愚かさや悲劇をはっきりしたものとして提示しているにも関わらず、手応えのあるものとして“救い”を提示はしなかった。おそらくはできなかった。その苦さが『逆襲のシャア』だ。

第471回へつづく

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(10.10.14)