第476回 「TVアニメ25年史」と「劇場アニメ70年史」(4)
僕はそれまでの人生で「TVアニメ25年史」と「劇場アニメ70年史」の追い込み時期くらい、真剣にものごとに取り組んだ経験はなかった。大学受験の数倍はマジメにやった。真剣だったのは「自分達でアニメ史をかたちにするんだ」という使命感があったからだし、原口さん達の常軌を逸した頑張りに、引っ張られたからだ。
「25年史」と「70年史」の編集作業をやっている間、僕は毎日昼に編集部に入った。最初は昼から終電まで編集部で作業していたのだが、途中から昼から翌朝までの作業になった。翌朝まで作業しても、昼には編集部に入った。昼に入るようにしていたのは、なるべく編集部にいる時間を長くしたかったからだ。当時は電子メールなんて使われていなかったし、携帯電話もまだ一般的ではなかった。連絡は直接会うか、固定電話か、FAXだった。「25年史」と「70年史」の関係者が連絡とりたいと思ったときに、僕が編集部にいないとお話にならない。だから、少しでもスムーズに仕事を進行させるために、昼に入った。編集担当者が自分で積極的に仕事をしているところを見せて、きちんと作業が進んでいる事を他の人達にアピールする意図もあった。後に鈴木敏夫編集長に、そのやり方が正解だったと褒めてもらえた。
当時、まだアニメージュ編集部では、ワープロはほとんど使われていなかった。僕は自宅ではワープロを使っていたが、編集部では原稿用紙と鉛筆で原稿を書いていた。だが、「25年史」と「70年史」への参加をきっかけにして編集部でもワープロを使うようになった。他のライターが使っていたワープロを譲ってもらって、編集部に置いたのだ。たまたま自宅で使っているのと同じ機種(東芝のJW-R70F)だったので、自宅で書いた原稿をフロッピーに移して、編集部に持っていって続きを書いた。ちなみに、この当時は原稿をテキストデータで入稿するような事はなく、ワープロで書いた原稿をプリントアウトして入稿していた。
大変だったのは「25年史」校了までの1ヶ月だった。まだ原稿が撒き切れていなかったので、振りまくった。この本には直接は関係していなかったアニメージュ編集部の亀山修さんにも原稿をお願いした。アニメージュのライターOBで、すでに他社で働いている方にもお願いした。硬い解説が得意でないライターには、世界名作劇場のあらすじだけをまとめてお願いした。1979年版『サイボーグ009』だったと思うが、書き手がいなくて困っているところに、たまたま、とあるビデオメーカーの方が編集部にいらした。その場にいた人間が「あの人は石森作品に詳しいぞ!」と言って、その方に原稿を依頼してしまった。僕らがそんなふうに騒いでいると、隣の編集部にいた小林智子さんが「みんなでやってて楽しそうね。私も手伝わせてよ」と声をかけてくれた。小林智子さんは、以前にアニメージュ編集部にいた女性編集者だ。編集部総出でというと大袈裟かもしれないが、僕の印象では編集部総出で「25年史」に取り組んだ。多くのライター陣に手伝ってもらったため、同時に進行していた号のアニメージュは全体に記事が薄くなってしまった印象がある。
最初は「1日10本の原稿を入稿」をノルマにしていたと記憶している。これから書かなくてはいけない原稿の本数を、残された日にちで割った数字だ。自分が書いた原稿と、他のライターが書いたものを合わせて、1日に10本を入稿するわけだ。だが、クオリティにこだわっている間は、なかなかその目標を達成できず、やがて「1日10本」が「1日20本」に増えた。一時期の目標はもっと多かったかもしれない。終盤はあまり質にこだわるわけにもいかなくなり、「最低限の必要な情報が入ってればOK」という事になった。
当時のアニメージュ編集部は毎朝、写植屋さんが編集部に原稿を取りにくるシステムだった。確か毎朝7時くらいに原稿を取りにきた。写植屋さんがくる時間までに、その日のノルマを達成すべく、ワープロのキーボードを叩いた。
第477回へつづく
(10.10.22)