第486回 『火垂るの墓』の「他者」
『火垂るの墓』は、執拗に清太と「他者」の関係を描いた作品だ。今回からしばらく、「他者」についての描写を中心にして振り返ってみよう。
まず、ファーストシーンだ。清太は清太駅構内に力なく座り込み、うつむいている。彼はやせ細っており、着ている服もボロボロだ。一応、説明しておくと、これは劇中の時間軸では、ラストシーンの後に相当する場面である。清太の幽霊が、死にゆく清太を見ているという構成の場面であり、幽霊のセリフによって、そこに座り込んでいる少年が主人公であるらしいことは、説明されている。
歩いてきた男性が、清太に気づいて「おっと」と言ってから避けて「汚いやっちゃなあ」と言う。気づかなかったら清太を踏んでいたかもしれない。その後、通り過ぎる人達が、清太に対して「汚いなあ」「死んどるんやろか」「アメリカ軍がもうすぐ来るちゅうのに、恥やで。駅にこんなのおったら」とコメントする。清太が死んだ後で、駅員がやってきて、モップの柄で清太の亡骸をつついて「またか」と言う。終戦直後のこの頃には、人の死が珍しいものではなかったのだろう。清太が持っていたドロップ缶には、節子の骨が入っているのだが、そんな事を知らない駅員はドロップ缶を投げ捨ててしまう。
座り込んでいる清太を撮ったカットも、死んだ清太を撮ったカットも、引いた構図をとっており、清太が座り込んでいる床の冷たさが伝わってくるような、冷静な映像になっている。死にゆく本人にとっては、死はその人生において1度だけ訪れる最後の瞬間だ。ではあるが、他人からすれば、沢山ある死のひとつでしかない。これから人生の最後を迎えようとしているのに「汚い」とか「恥だ」などと言われてしまう。清太にとって、通り過ぎる人達や駅員は「他者」でしかないのだ。観客は、早くもファーストシーンから「他者」の存在を感じる事になる。
最初に清太を踏みそうになった男性が、その後で、他の通行人にぶつかっているのも、おそらくは重要な点だ。つまり、清太を踏みそうになったのは、男性にとって「日常的によくある出来事」のひとつでしかないのだ。彼は「汚いやっちゃなあ」と言ったのも、すぐに忘れてしまうのだろう。
駅員は清太に対して「またか」と言った後で、他の浮浪児の様子を見て「こっちのやつも、もうじきいてまいよるぜ」とコメントする。駅員にとっては、清太は沢山いる浮浪児の1人でしかないのだ。そのカット(1-14)は、カメラを引いた構図で清太と他の浮浪児を収めている。50秒近い長回しであり、カメラは動かない。カメラワークとしてはFIXである。駅員が他の浮浪児の様子を見ている間、清太の遺体はポツンと画面の中に放置されている。まさしく客観性を感じさせる1カットだ。
高畑監督は、主人公の死を、まるでその現場に観客が立ち合っているかのような臨場感をもって描きつつも、同時に「しかし、それは沢山ある死のひとつでしかない」「周囲の人間が、必ずしも彼に対して関心を持っているわけではない」のを示し、観客が悲しみに浸るのにブレーキをかける。観客が「主人公の死」に浸ることすらも許さないのだ。この場面も悲劇的なものではあるのだが、主人公に感情移入させるタイプの「泣かせの演出」とはまるで違った見せ方になっている。
このファーストシーンにおいて、座り込んでいる清太に対して「汚いなあ」と言う通行人を描く一方で、見かねて清太の近くに、にぎりめしを置いていく人を描いている点にも注目したい。それを描写する事で、「他者」の存在が冷ややかになりすぎるのを止めている。バランスをとっているのだ。ここでそうやってバランスをとるのが凄い。
ファーストシーンには、もうひとつ仕掛けがある。この映画を初めて観る観客は、死にゆく少年が主人公らしいことは分かっても、どうして彼がそんな末路をたどったのかも、ドロップ缶に何が入っているのかも知らないわけだ。少年が死んでいくのは悲劇的な出来事であるが、ファーストシーンの段階では、観客は彼のことを何も知らないために、いまひとつ感情移入できない。つまり、この場面において、観客にとって清太は、そして清太にとって観客は、「他者」でしかないのだ。
この後の展開で、観客の多くが清太に感情移入することになるのだが、高畑監督はファーストシーンで観客を、劇中で「汚いなあ」とコメントした通行人と同じ立場の「他者」の1人として、その死に立ち会わせているのである。
第487回へつづく
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(10.11.08)