第488回 『火垂るの墓』の庭からの視線
今回は「他者」ではなく、「視線」についての話だ。ずっと前から一度、原稿にしたいと思っていた話題である。
映画の後半で、食べ物が手に入らなくなったため、清太は畑から野菜を盗むようになり、その後で火事場泥棒をはじめる。空襲があると、彼は見知らぬ民家に飛び込む。最初は食べ物を奪っていただけだが、やがて衣類を盗むようになる。盗んだ衣類を農家に持っていき、食べ物に換えるのだ。火事場泥棒を終えた清太が、飛んでゆくB29に向かって「やれやれ! わーい!」と叫んで飛び跳ねる描写がある。皮肉にも、母親や家を奪った空襲を喜ぶようになってしまったのだ。清太は坂道を転がるように堕ちていく。
火事場泥棒は2度描写されており、今回話題にするは最初の火事場泥棒だ。空襲が始まり、人々が防空壕に駆け込んでいるとき、清太だけが別の方向に走る。民家に飛び込んで、台所にあった鍋ごと料理を盗む。そして、居間で座り込み、おひつにあったご飯を手づかみで食べ始める。おひつのご飯を食べてるのを見せた後で、その民家の庭から居間を撮った(という想定で作られた)カットになる。手前に朝顔の鉢とヒマワリがあり、その向こうに居間があり、座り込んでおひつのご飯を必死に食べている清太の背中が小さく見える。このカットが、僕にとって大変にインパクトのあるものだった。衝撃的だった、と言っても大袈裟でないくらいだ。
民家に飛び込んで、おひつのご飯を食べるまで(5-201〜206)、カメラは清太の行動を追いかけており、その部分は観客が清太に感情移入できる描写になっている。それに対して、庭から撮ったカット(5-207)は、ひどく客観的に清太の行動を捉えたものだ。例えば、無関係な誰かが、火事場泥棒をやっている清太を観察しているような映像になっている(さらに突っ込むと、そのカメラの高さは、節子くらいの子どもの目の高さに設定されているようにも思える)。絵コンテではCut207のト書きに「(ご飯を食べている清太の)そのあさましい姿」とある。
ここで「主観的演出」という言葉を使うのが適切なのかどうか自信がないし、Cut201〜206にしても、厳密には主観的に演出されているわけではないのだが、今回はその言葉を使う。Cut206からCut207になったところで、主観的演出から客観的演出に切り替わるわけだ。
観客が清太に感情移入していたならば、彼が火事場泥棒をやっているのを、息を飲んで観ていただろう。「そんなことをやっちゃ、マズイよ」と思いながら観ていたわけだ。あるいはもっと感情移入して、自分が人の家に上がり込んで手づかみでご飯を食べてるような感覚で観ていた観客もいただろう。それがCut207で、いきなり客観的なカットに切り替わる。そこで観客は、清太を客観的な視点で観るよう強要されるわけだ。そして、自分が感情移入していた主人公が、少し距離をおいて見ればただの泥棒でしかないことを思い知る。
そのように受け止めた観客がどのくらいいたのかは分からないが、僕は、Cut206からCut207での主観的演出から客観的演出への切り替わりをショッキングに感じた。作り手が主観的演出と、客観的演出と使い分けて、観客をコントロールしているのは間違いない。しかも、あまりにも鮮やかにそれをやっている。
自分自身の話を続けると、主観的演出から客観的演出への切り替わりがショッキングだっただけでなく、庭から清太を見つめる視点のあまりの冷たさに慄然とした。冷たく厳しく主人公を見つめている人格の存在が感じられ、その存在を怖いと感じたのだ。僕がカットの割り方でここまで衝撃を受けたのは、これが最初で最後かもしれない。Cut207の冷徹な視線が、高畑監督の視点とイコールに思えてならなかった。
第489回へつづく
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(10.11.10)