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COLUMN
アニメ様の七転八倒[小黒祐一郎]

第15回 懐かしの『空飛ぶゆうれい船』(後編)
     〜リアルなメカ描写と「まんが映画」〜

 『空飛ぶゆうれい船』で、今もメカファンや作画マニアの間で語りぐさになっているのが、国防軍の戦車とゴーレムの戦闘だ。作画を担当した宮崎駿が『新ルパン』最終回で、このシーンをリメイクした事でも有名である。前回書いたように、僕は子供の時に劇場で『ゆうれい船』を観た事をよく覚えているのだけれど、戦車のシーンについては記憶がぼんやりしている。その前のハヤトがボアジュースを飲んでいるところも、後の幽霊船とゴーレムの戦いもよく覚えているのだけど。もっとも、同様に子供の頃に観た『サイボーグ009 怪獣戦争』にしても、どう考えてもドラマ的なクライマックスは、ヘレナがサイボーグ戦士を助けるところなのだけど、そこは全く覚えていない。それなのに、後のサイボーグ戦士の大暴れは、個々のアクションまで覚えている。まあ、子供の興味の持ち方なんて、そんなものだ。

 アニメージュ1981年8月号(vol.38)の大特集「宮崎駿 冒険とロマンの世界」での宮崎駿へのインタビューによれば、戦車が街で自動車を蹴散らすシチュエーションは、おそらくシナリオにはなく、彼が提案したものなのだそうだ。原画も最初は他のアニメーターが担当するはずだったのだが、自分がやると言って強引に奪い取った。確かに朝日ソノラマのシナリオ本を読むと、戦車の登場はなく、自動車の上に高層ビルが倒れ込み、ゴーレムが出現する。
 戦車登場からゴーレムが街を破壊するまでのシーンの仕上がりは、今の目で観ても凄まじいほどのものだ。バリバリと自動車を踏みつぶしていく戦車。何が起きたのかの状況説明もないままに、戦車が砲撃し、その後でゴーレムを見せる。観客はそこで、そうか、このロボットに攻撃するために戦車が出撃してたのか、と分かるわけだ。ゴーレムの巨大感の出し方も上手いし、静と動のメリハリも抜群だ(戦車が撃つ前にカタカタとゆっくり砲身を上げて、さらに撃つ前の「間」もいい)。おそらく特撮映画の影響を影響を受けていると思われるが、ビルが立ち並ぶ街を、パノラマ的に描いているのも素晴らしい。スクリーンの中に巨大な空間が感じられるのだ。作画もいい。戦車が自動車を踏みつぶすカットのタイミングは完璧だし、崩れるビルもディテールが細かくて嬉しい。ビルとビルの間にゴーレムが姿を見せるカットのインパクトも凄いが、ロングの真俯瞰で逃げる人々(これが宮崎さん得意の超絶モブ作画)の上にゴーレムの影がかぶさり、さらにゴーレムの手がフレームに入ってくるカットも身震いするくらいだ。なんで子供の頃の僕は、このシーンの良さがわからなかったんだ。ダメだなあ。また、前述の記事で宮崎さんは、街中で戦車に発砲させた事で、こちら(「自分達」の意味でしょうね)の政治意識がどういうものかを現したつもりだった、と語っている。軍備の危険性を訴えるという事に関しては、『新ルパン』最終回の方がセリフで直接言っているだけに、より明快になっている(ただ、戦車が街に現れる事の怖さについては『ゆうれい船』の方が上であろう)。

 『ゆうれい船』を、前年に公開された『太陽の王子 ホルスの大冒険』の影響下にある作品と断言していいのかどうかは分からない。ただ、社会的なテーマ、リアリズムは2作に共通するものであり、『ゆうれい船』は明らかに『ホルス』と同系列の作品である。映像に関して『ゆうれい船』のリアリズムを代表するのが、この戦車とゴーレムの戦闘だ。他のシーンもいいところがあるが、やはりここがズバ抜けている。
 戦車とゴーレムのシーンに限らず『ゆうれい船』のメカ描写が優れているのは、人間とメカを「別のもの」として描いている点だ。人間は柔らかいものとして描き、メカは硬いものとして描く。演出的にも、巨大なメカを描写する時には、人間を撮る時とは違ったアングルで描く。特撮映画で、通常のシーンと怪獣が登場するシーンが違うのと同じくらい、違った描き方をしている。それをやったために『ゆうれい船』のメカ描写は、従来の漫画映画とは比較にならないくらい先進的なものとなった。よくない例として挙げるのは申しわけないが、同じ劇場作品の『サイボーグ009』や『怪獣戦争』のメカ描写と比較すれば、その新しさが分かる。それまでのTVマンガや漫画映画では(多少の例外はあるだろうが)、キャラクターもメカも、同じように描写されていたのだ。
 後続の作品で、リアルなメカ描写が印象的だったものとして、『科学忍者隊 ガッチャマン』や『宇宙戦艦 ヤマト』等があるが、『ガッチャマン』の放映開始が3年後の1972年、『ヤマト』の放映開始が5年後の1974年。その2作にしても『ゆうれい船』のメカ描写を完全に越えたとは言えまい。

 長くなるが、『ゆうれい船』のメカ描写についてもう少し述べておく。本作のリアルなタッチについては、ゼロックスの積極的な使用に負うところも大きい。ゼロックスは『ホルス』でも使われた技術だ。それまでの作品では、動画の線をハンドトレスでなぞっていたわけだが、ゼロックスの導入で鉛筆の線をそのままセル画にコピーできるようになった。そのため、ハンドトレスではほぼ不可能だった機械の堅い線の描写や、緻密な描き込みが可能になったのだ。幽霊船長はドクロの仮面を被っているのだが、冒頭シーンでのそのアップの描き込みが素晴らしい。あれもゼロックスならではの描写だ。
 また、幽霊船や戦車等のディテールの細かいメカを必要以上に動かさなかった事にも注目したい。横移動にはスライドを使い、画面の手前や奥への移動はゼロックスによる拡大縮小で表現。描き込みや硬いメカの質感を損なう事なく動かしている。動かさない事で、よりよい効果を上げているわけで、それは従来の漫画映画(あるいは「アニメーション」と言うべきか)とは逆の発想である。B作と呼ばれた東映作品は、制作費が潤沢ではなかった。シナリオ本での池田宏監督のコメントによれば、『ゆうれい船』の作画枚数は60分で1万枚強。分あたりの枚数で言えば、当時のTV作品よりも少なかったのだそうだ。たっぷりと枚数が使えない状況だからこそ生まれた、リアルな表現でもあったのだ。
 メカの話ばかりになってしまったが、小田部羊一のキャラクターも秀逸だ。『ゆうれい船』は小田部さんにとって、初めての作画監督作品である。「東映動画 長編アニメ大全集」に掲載された彼のコメントによれば、『ゆうれい船』は大塚康生が作画監督をやる予定であったが、大塚さんが東映動画を退社したために、彼がやる事になったのだそうだ。小田部さんは、原作の石森作品のテイストを活かしつつ、アニメキャラとしても洗練されたものとしてキャラデザインを仕上げている。シンプルであり、立体的。それに線にちょっと色気があるのだ。

 『ゆうれい船』は全体としては冒険SF。いや、もっと大時代的な「空想科学マンガ」という呼び方の方が相応しい。まだSFというジャンルが新鮮なものであり、夢やロマンと直結していた時代の作品だ。当時のアニメとしては驚くほどリアルな描写や世界観で、空想科学マンガをやっている。つまり『鉄腕アトム』や『スーパージェッター』くらいの大らかな時代のSFを、ハードかつリアルにやっている。それが『ゆうれい船』という作品の面白さだ。
 アニメが「TVマンガ」や「漫画映画」と呼ばれていた時代の作品だが、アニメ史を俯瞰して見ると、「アニメ」寄りの「漫画映画」として位置づけられる。この場合の「アニメ」とは、1970年代後半のアニメブーム以降の「アニメ」だ。それは『宇宙戦艦 ヤマト』のように船が飛んで戦ったり(しかも艦長を演じるのは納谷悟朗で、ラストで主人公が特攻をしそうになる展開まである)、メカの描写がリアルだからという理由だけではない。ティーンの視聴に耐えられる内容であり、刺激の強いフィルムであるからだ。

 また、『ゆうれい船』はラストシーンが素晴らしい。子供の時に観て、一番印象に残ったのがこのシーンだった。戦いが終わり、平和が訪れた。ハヤトは、幽霊船で一緒に戦った少女とヨットで海に乗り出す。幽霊船長はガイコツの仮面を外して、父親としてハヤトを見送る。青い空、青い海。ヨットの白い帆。そして、流れる主題歌「隼人のテーマ」。自分達の前には、明日がある。昨日の事は忘れて、明日へ向かって進んでいこう。そういった内容を歌い上げる曲だ。ハヤトが連れている犬のジャックが、袋に入れて持って歩いていた(という設定なのだろうが、実際に持っている場面はほとんどない)ガラクタを海に落としてしまう。悲しむジャックにハヤトは言う。「しょげるなよ、ジャック。これからはもっと素晴らしいものを、みんなで集めるんだ」。「そう、1人でやったんじゃ下駄くらいよ」と少女。幽霊船に乗っている時には、女性戦士のように凛々しく振る舞っていた彼女が、「下駄」なんて庶民的な言葉を口にするのも、微笑ましい。波の作画も見事なものだし、ヨットのシルエットも綺麗だ。この明るい海は、オープニングの不気味な海と対になっているのだろう。それまでハードで深刻な内容だったが、最後の最後にこのシーンを持ってくる事で、映画を「夢とロマン」でまとめているのだ。
 夢があり、ロマンが香るという意味でも、『空飛ぶゆうれい船』は、アニメブーム以降の「アニメ」に近い「漫画映画」なのだ。
 

■第16回へ続く

(05.05.20)

 
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