10年ちょっと前、人々は『美少女戦士セーラームーン』に浮かれていた。「熱中していた」とか「ブームだった」と言うよりは「浮かれていた」という表現のほうが適切だ。子供達は楽しく観ていた。別のところで、いい年したアニメファンのお兄さん達は『セーラームーン』でハシャいでいた。
第1シリーズの頃、ガで名前が始まる某アニメスタジオでは、放映が始まる時間になると、作画打ち合わせ中でも中断して、他社の人も一緒になって『セーラームーン』を観ていた、なんて逸話もある。そういうあなたは? と問われれば、勿論、僕だって浮かれていた。アニメ雑誌のライターとして、放映開始前から、この『セーラームーン』と付き合っていて、この作品がどんどんノリがよくなり、人気が加熱していくのを間近で見ていたのだ。ひょっとしたら『セーラームーン』で日本で一番浮かれていたのは僕かもしれない。
とあるアニメ監督と「まこちゃん、亜美ちゃん、レイちゃん」の誰がいいかで議論した事がある。その時、僕は20代後半、その監督は30代だった。誰がどう考えても「僕はまこちゃん派だね」「分かってないなあ、レイちゃんの方がいいですよ」なんて、深夜の喫茶店で話すような年齢ではない。これまた別の監督から「小黒君は不純だ。本当に『セーラームーン』を愛していたら、それを仕事になんかできないはずだ」と、わけの分からない論旨で糾弾されたこともある。いや、半分は冗談だったのだろうけど、本当にそんな事を言われた。長い事、アニメファンをやっているが、作品に対するピュアなハートを疑われたのは、後にも先にもその時だけだ。ひょっとしたら、僕の周りに特に濃い人が集まっていたのかもしれないけれど、とにかく浮かれていた。
90年代中盤から起きる第2次アニメブームの土台を『セーラームーン』が作ったのは間違いない。あの番組で、久し振りにオタクのスイッチが入ったお兄さんも多かっただろう。なぜ、それほどの魅力があったのかを論じるのは野暮な気がするし、誰もが納得する解答が出るものとも思えない。原作や企画の力、スタッフの才能や声優さんの個性といったものが『セーラームーン』の魅力につながっていたのは間違いないが、それだけではない。いくつかの要素が混じり合って予想外の化学変化が起こり、ああいったノリが生まれていたのだ。例えば、同じスタッフが同じ原作で、別の時期に『セーラームーン』を作ったとしてもあの感じにはならないはずだ。
どちらかと言えば練り込んで作られた作品ではない。むしろ、雑なところのあるユルい作品だ。だけど、そのユルさもアジになっていた。後に脚本家の榎戸洋司さんが1年目の『セーラームーン』を評して「初々しい作品だ」と言った事がある。これには膝を叩いた。雰囲気も初々しいし、キャラクターも初々しい。よくできた作品や、濃厚な作品は狙って作る事もできるが、初々しさは計算して作る事はできない。さらに言えば、初々しいものとは、若くて未熟ではあるけれど、これから成長していくと感じられるものだ。
放映開始前後には『セーラームーン』は注目作でもなんでもなかった。放映が始まってしばらくした頃に、とある関係者に「小黒さん、こんな作品をいくら押したって、しかたないよ。どうせ半年くらいで終わるよ」と言われたくらいだ。僕も最初から、人気が出ると確信して記事を作っていたわけではない。「半年くらいで終わるよ」と言っていたその人が、1年後に「俺は最初からアタると思っていたね」と言い出した時には苦笑した。いや、世の中って、そんなものなんだろう。
僕はアニメージュで色んな記事をやった。特に最初の1年は、他のメディアが注目してない事もあって、やり放題に記事を作る事ができた。若手演出家だった幾原邦彦さんをプッシュしたり、声優さん5人を作品の舞台である麻布十番に連れて行って写真を撮ったり、亜美ちゃん人気が盛りあがる前に、担当編集の反対を押し切って彼女をフィーチャーする記事をやったり、他社の作家である原作者の武内直子先生に描き下ろしイラストをお願いしたり。
このコラムを書くにあたって、改めて1年目に自分がやった記事を読み返したのだけど、いかにも楽しんで記事を作っている感じや、作品に対する愛情が溢れていて、感心したり、照れくさかったり。水野亜美が単独で表紙になった号の特集のリードなんて、まるっきりラブレターだ。そのリードのシメは「だから、だから……振り向いてよ、亜美ちゃん!」だ。これをシャレとか、なんちゃってではなく、真剣に書いた。浮かれていると言うよりは、我を忘れている。この原稿について、編集部の女性から「小黒さん、恥ずかしくないんですか!」と言われたが、「仕事として必要な原稿を書いているんだから、恥ずかしくない」と答えた。それが客観的に見れば、充分すぎるほどに恥ずかしい事は、今では僕にも分かる。
「レイちゃん人気倍増計画」なんて記事もやった。これはセーラーマーズこと、火野レイの人気がイマイチなので、その事についてレイ役の富沢美智恵さん、東伊里弥プロデューサー、キャラデザインの只野和子さん、幾原邦彦さんが議論するというものだ。富沢さんが、レイちゃんの愉快な描写が増えている事について残念がっており、その話を聞いて立てた企画である。記事では、レイちゃんがギャグキャラクターになりつつあるのは、幾原さんが糸を引いているために違いないと富沢さんが指摘して、皆がレイちゃんは通好みの女の子なんだとフォローしたり。ついに幾原さんが、レイちゃんをギャグキャラとして行くところまで行かせると宣言。最後は富沢さんが座談会中に「もう、いいわ。読者のみなさん、レイちゃんにラブレターを送ってください。わたしがお返事を書きます」と提案して終わるのだ。記事下の欄外には「★上のような事情で、レイちゃんへのラブレターを募集します(女の子が応募してもいいぞ)」と書かれている。何が倍増計画なのかはよく分からないが、ノリノリなのは間違いない。
放映開始前にシリーズ・ディレクターの佐藤順一さんから、アニメージュで『セーラームーン』を盛り上げてほしいと言われたのが、この作品を押すきっかけだった。ちなみに『もーれつア太郎[新]』の時に、見どころのあるやつだから幾原邦彦を取り上げてやってくれ、と言ったのも佐藤さんだった。最初に仕掛けたのが「第1回セーラー大賞」という企画で、それはセーラーマーズとセーラーマーキュリーの決めゼリフ、それと妖魔の珍作戦を読者から募るというものだった。募集を載せたのが3月10日売りの4月号。『セーラームーン』1話の放映が、その数日前の3月6日の事だから、放映前から仕込んだ企画という事になる。
「第1回セーラー大賞」の結果は、2月後の6月号に発表。妖魔の珍作戦部門は大賞作品はなかったが、決めゼリフの方は大賞をとったものが本編で使われることになった。マーズの方が「勇気と正義のセーラー服美少女戦士 セーラーマーズ 火星にかわってせっかんじゃ〜!」、マーキュリーは「知性と正義のセーラー服美少女戦士 セーラーマーキュリー 水でもかぶって反省しなさい!」。本編では、そのままではなくアレンジしたものが使われている。選考は佐藤順一さん、東伊里弥プロデューサー、太田賢司プロデューサーの3人で行われた。マーズの「せっかん」を押したのが太田プロデューサーだった。マーキュリーの「知性と正義の……」の部分は、おバカなうさぎちゃんに対するあてつけで言っているみたいだという意見もあった。
決めゼリフについては選んだ人が自分で責任を持つべきだという事で、佐藤さんが自分の演出回で使うことになった。ところがその時に、佐藤さんは『ユンカース・カム・ヒア』の制作に入っており、持っている話数は1本しかなかった。それがあろう事か、24話「なるちゃん号泣! ネフライト愛の死」だった。ダークキングダム四天王の1人であるネフライトと、なるちゃんのドラマのクライマックス。例のチョコレートパフェの話だ。傷ついたネフライト、泣くなるちゃん、2人の大ピンチ。そこに現れるセーラー戦士。「月にかわっておしおきよ!」「火星にかわってせっかんよ!」「水でもかぶって反省しなさい!」と決めセリフの三連発。明らかにセーラー戦士達の方が、ドラマから浮いている。おいおい、この場面で「せっかん」はないだろう。シリアスな雰囲気が台なしだ。お前が反省しろ。いや、俺が決めゼリフ募集なんて企画をやったせいなのか。こんなシーンでこんなセリフを言わせて、ごめんなさい。俺が水でもかぶって反省します!
後で冷静になって、むしろ、そのチグハグさも『セーラームーン』のアジなのだと納得した。24話にはもうひとつ「それはあんまりだ」と思うところがあった。ネフライトはついに命を落とす。立ちつくすセーラー戦士達。なるちゃんの涙。そこでこのエピソードは終わる。EDをはさんで予告がつくのだけど、それは以下のようなものだった。「ルーナ、新しいお友達。木野まことちゃん。まこちゃんて呼んでね」「でっかいわねえ」。……って、おい! お前、数分前まで涙ぐんでいただろう。それなのに新しい友達で喜んでるんじゃないよ。なるちゃんは、どうすんだよ。ルナも「でっかいわね」とか感心してるんじゃないよ。続く25話は木野まこと初登場の話で、なるちゃんを励ます話は、なぜか26話に持ち越しになったのだ。このあんまりな予告についても、後になって、アジなのだと納得した。
そんな事で、一喜一憂するくらい『セーラームーン』に入れ込んでいた。やっぱり日本で一番浮かれていたのは、僕なのかもしれない。ただ、それについて水でもかぶって反省しようとは、今でも思わない。
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