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COLUMN
アニメ様の七転八倒[小黒祐一郎]

第49回 エヴァ雑記「第拾六話 死に至る病、そして」

 Bパート頭、リツコが第12使徒について説明するシーンで、彼女の背後のホワイトボードに「ストリングスが存在し、動き回る空間」「ストリングスが動く次元」等と書かれている。ストリングスとは紐の事であり、リツコは超ひも理論を使って第12使徒について考えていたのだろう。LD解説書で、この辺りの話数の作業をしている頃、僕は同時に『機動戦艦ナデシコ』の『ゲキガンガー3』の設定作りをやっており、そろそろ敵宇宙人の設定を決めなくてはいけなかった。最新の科学の話題を設定に採り入れると、70年代のロボットアニメらしくなるに違いない。この話数の解説を書く為に「超ひも理論」の本を読んでいたので「これだ!」と思い、それをヒントに名前を付けた。『ゲキガンガー3』の敵であるキョアック星人が「暗黒ヒモ宇宙」から来る事になったのは、実はリツコが描いたホワイトボードの文字がきっかけになっているのだ。ヒモ宇宙の前に「暗黒」を付けたのは、『大空魔竜 ガイキング』で敵軍団の名をブラックホールの前に「暗黒」を付けて「暗黒ブラックホール軍団」とした故事に則っている。今でも、この話のリツコの解説シーンを見ると『ゲキガンガー3』を思い出してしまう。『エヴァ』のLDを作りながら、『ゲキガンガー3』の設定をやり、『少女革命ウテナ』の企画をやっていたのが、僕の1990年代後半だ。閑話休題。

 風呂が熱かった事でアスカが怒り、シンジはすぐに謝る。その事についてアスカは「内罰的だ」と云う。内罰的とは心理学で、上手くいかない事が生じた場合に、それを自分の責任と考えて、自分を責める傾向の事だ。日常会話で使う様な言葉ではなく、冒頭でわざわざこんな言葉を云わせているのは、この話が「心の話」である事を示しているのだろう。
 「第拾六話 死に至る病、そして」では、シンジが第12使徒を形成するディラックの海に取り込まれてしまう。Bパートではシンジの内的宇宙で物語が展開し、そこで自分自身についての葛藤、母親についての記憶等が描かれる。内的宇宙の前半は現在の彼の姿をした「シンジA」と、子供の姿をした「シンジB」の会話で展開している。物語の筋としては「シンジA」が本物の彼で、「シンジB」は第12使徒だ。使徒がシンジの心を探る為に「シンジB」として、コンタクトをとってきたわけである。だが、シンジが泳げない事まで知っている事からも分かるように、「シンジB」は彼自身の意識と一体化しているようだ。ここでの会話の内容は「シンジB」が云う様に、人間を形成する「自分」と「自分を客観視する自分」の対話として解釈して構わないだろう。「シンジB」は、「シンジA」が「他人の中にいる自分」を怖がっていると云う。「他人の中にいる自分」は『エヴァ』独特の考え方であり、シリーズ終盤でも話題となる。「シンジA」を縦線、「シンジB」を横線で表現する等の手法も斬新。古びた電車の中を舞台にしたのは鶴巻和哉副監督のアイディア。これは彼が子供の頃に見た夢が元になっているのだそうだ。この話での内的宇宙描写の成功が、後のシリーズの展開に影響を与える事になる。
 内的宇宙の中で「シンジB」は、これから僅かにある楽しかった経験を反芻して生きていくのかとシンジに尋ねて、そして、それは自分を騙す事だと云う。「シンジA」は誰だってそうやって生きている、この世界は自分が生きて行くには辛すぎるからだと反論。「シンジB」はそれは現実から逃げているだけだと云って「楽しい事だけを数珠の様に紡いで生きていられるはずがないんだ。特に僕はね」と云い切る。「特に僕は」というのは、彼が「そういった行為は逃げる事だ」と自分で感じてしまう少年であるからに違いない。シンジは特にアニメやゲームが好きな少年ではないが、厭な事から顔を背け、楽しい事だけをやっていたいという彼の願いを、オタク的であると捉えても差し支えないだろう。「楽しい事だけを数珠の様に……」は『エヴァ』を観ているファンにとっても耳の痛い台詞であるはずだ。この自分の喜びに耽溺する人達への疑問が、TVシリーズ放映終了後のマスコミでの庵野監督によるオタク批判に繋がり、「第26話 まごころを、君に」の実写シーンに集約されていく。

 「第拾六話 死に至る病、そして」は、このように使徒との戦いと内的宇宙の描写が結びついた話だ。キャラクターへの踏み込みもあり、テーマ的にも充実。盛り沢山であり、バランスのよいエピソードだ。演出・絵コンテは鶴巻和哉が担当。彼の個性が色濃く出た話でもある。この話の作画監督としては長谷川眞也がクレジットされているが、彼が実際にやったのはキャラクターの修正だ。クレジットはされていないが、吉成曜がメカの修正をやっている。前半の3機のEVAがビル街にいるシーンはレイアウトが恰好いいが、ここは鶴巻さんが相当手を入れているのだそうだ。この話のサブタイトルは、哲学者セーレン・オービュイ・キルケゴールの著書「死に至る病」からの引用。「死に至る病」とは「絶望」の事であり、この著作の緒論でキルケゴールは、キリスト教者にとっては「死でさえも『死に至る病』では無い。いわんや地上的な苦悩すなわち困窮・病気・悲惨・艱難・災厄・苦痛・煩悶・悲哀・痛恨と呼ばれるものどれもそれではない」と語る。「何か」について絶望する事は決して本来的な絶望ではなく、「自己」に絶望する事、絶望して自己自身から抜け出そうとする事があらゆる絶望の定式であると云う。この話に関して云えばシンジが自分に向かい合い、生き方に疑問を持った事が「絶望」なのだろうか。

 前々回でも少し書いたが、EVAには「母」のイメージが、エントリープラグに入ってEVAに搭乗する事には「胎内回帰」のイメージが、与えられている。この第拾六話でシンジはエントリープラグの中で母親のユイと再会しており、「EVA=母」の印象が強い。初号機は、第12の使徒を引き裂いてその中から脱出する。第12使徒からは鮮血が迸り、初号機は血まみれになる。これは「出産」のイメージだろう。その文脈で云えば第12の使徒の模様は、複数の女性器が重なった形に見えなくもない。
 この話の前半で、シンジは「戦いは男の仕事!」と云う。普段は自分の男らしさを主張する事のない彼としては珍しい事だが、その後でシンジは第12使徒に取り込まれてしまう。それは「EVA=母」の胎内から出られなくなったという事でもあり、まるで「僕は男だ」と生意気な事を云った子供が、母親に罰を与えられているようだ。その構図は後に第拾九話、第弐拾話でも繰り返される事になる。この話の英文サブタイトルは「Splitting of the Breast」。これは精神分析の言葉で「乳房の分裂」を意味し、幼児が母親の乳房に抱いているイメージを「良い乳房」と「悪い乳房」に分けてしまう心理的過程を云う。この話に於ける「良い乳房」と「悪い乳房」とは何か? シンジを飲み込んだEVAが悪い母親で、彼を救ったユイが良い母親か。「帰ってきたら叱ってあげなくちゃ」と云いながら、生還したシンジを見て泣き崩れるミサトも、ベッドで休んでいるシンジに優しく「そお、良かったわね」と云うレイも、この話に関しては、母親的なキャラクターに見える。第拾六話は母親をめぐる話でもあるのだ。


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■第50回 エヴァ雑記「第拾七話 四人目の適格者」に続く


(06.06.08)

 
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