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COLUMN
アニメ様の七転八倒[小黒祐一郎]

第65回 『時をかける少女』とモラトリアムの特権

 細田守監督版の『時をかける少女』を観て、ごく当たり前に面白いという事が、こんなにも価値があるものだったのかと思った。誰にでも分かる普通の映画なのに、充分に満足できる。「だけど」や「の割りには」がない作品だ。「……だけど、頑張っている」とか「……の割りには、面白い」ではない。そんな条件なしに「よくできている」「面白い」と言う事ができる。
 細田監督が「アニメは何ができるか」「アニメはどんな事が得意か」という事をよく分かっていて、それをやり切っているのが気持ちいい。映像のフェティッシュな心地よさは『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』には及ばないが、そういった部分が突出していないところが、青春ものに合っていた。

 以下は、余計な話かもしれない。どうして余計かと言えば、解釈などなくても、この映画は充分に楽しむ事ができるからだ。空は青く、雲は白い。主人公は元気で、キャッチボールは楽しそうだ。むしろ、解釈などは邪魔かもしれない。だけど、書きたいと思っているうちに書いておく事にする。例によって作品の内容について触れているので、未見の方は読まない事をお勧めする。
 絵コンテを読んだ時に、これはモラトリアムについての話だと思った。紺野真琴、間宮千昭、津田功介の3人は毎日、学校の帰りに3人だけで野球をやっている。それは野球ごっこであり、生産性もなければ発展性もない。ただの暇つぶしだが、それゆえに楽しい。仲はいいが、3人の関係は恋愛に発展しそうもない。絵に描いたような青春のヒトコマであり、現実味は乏しい。それは彼等がモラトリアムにある事を示すためのものだ。時間がたっぷりとあり、つまらない事を楽しむ事ができる。未来に対する漠然とした不安はあるけれど、ゆったりとした時間の流れに身を委ねている。そんな彼らの状態を表現するための設定だ。
 真琴が手に入れたタイムリープ能力も、モラトリアム性を浮き上がらせる装置だ。モラトリアムとは何か。それはまだ若いために、社会的義務や責任を持たない状態を指す。真琴達は高校2年生。夏休みに入る直前で、将来の進路という現実とはまだ直面していない。若い頃は時間がたっぷりとあり、何度でもやり直しがきくような気がする。逆に言えば、時間がたっぷりあると思えるから、焦らずにモラトリアムでいる事ができるのだ。真琴は自分が楽しむためにタイムリープし、困った事があるとタイムリープする。彼女は日々を何度もやり直す。大人の目から見れば、その行為はモラトリアムそのもの。モラトリアムの万能感。モラトリアムの特権の過剰な行使でもある。
 映画の中盤で、先生に進路についてちゃんと考えろと言われる場面があったが、その後で、真琴は過去へタイムリープしてしまう。その時のタイムリープは後輩の恋愛のためにやったのだが、結果的に進路の決定から逃れた事になっている。それも象徴的だ。千昭からの告白から逃げ出してしまったのも同様。魔女おばさんにタイムリープのせいで損をしている人もいるのではないかと指摘され、そんな事を考えてもいなかった真琴は驚く。それもモラトリアム的。社会的義務や責任を果たす事を要求されていないとはいえ、モラトリアムの若者だって社会で生活している以上は、周囲に対して迷惑をかける事がある。本当は彼らにも義務もあれば、責任もあるのだ。自分がモラトリアムの特権を行使したために他人に迷惑をかけた真琴は、それを償うために奔走する事になる。
 「タイムリープ能力=モラトリアムの特権」なのだ。タイムリープは無限に繰り返せるものかと思われたが、使用回数の残りがわずかになったところで、真琴はその能力に限界がある事を知る。モラトリアムの渦中にいる時には、それがいつか終わるものだとは思わないものだ。真琴は、タイムリープ能力を失った直後に自分の進路を決めている。モラトリアムな生活は楽しいものだが、目的を見つけてそれに向かって進んでいく事には、それとは別の人生の充実がある。
 能力を持っていた真琴はタイムリープで時間移動をしていたが、その能力を失った彼女は自分の脚で未来に向かって走り出す。実はタイトルの「時をかける」とはタイムリープ能力の事ではなく、自分の目的を見つけて、そこに向かって走っていく事だったのかもしれない。見事な構成だ。

 押井守監督の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』も、主人公達がモラトリアムな時間を繰り返す物語だった。この作品と比較すると、細田守版『時をかける少女』がよく分かる。『ビューティフル・ドリーマー』はモラトリアムに留まる事の心地よさを描き、物語の最後でもモラトリアムが続く事を暗示している。それに対して『時かけ』は、タイムリープと快活な少女の組み合わせでモラトリアムの楽しさを描写しつつも、いつかそれが終わる事を観客に告げ、未来に向かって進んでいこうよと語りかける。その事で『時かけ』は、本質的な意味での青春映画になっている。僕がこの映画を若い人に観てもらいたいと思ったのも、そのためだ。
 最後に監督の知人としての感想。細田守がこんな真っ直ぐな映画を作る事ができたのは、彼がフリーになって1作目の作品であるからだろう。モラトリアムを脱し、自分の責任で自分の作りたい映画を作る。そんな彼の前向きさと映画の内容がリンクしている。彼が作りたい映画を作り切った事の気持ちよさと、劇中で描かれた青春の爽やかさがシンクロしている。


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■第66回に続く


(06.07.27)

 
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