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COLUMN
アニメ様の七転八倒[小黒祐一郎]

第91回 『エスパー魔美』再見 「わたし応援します!」

 『魔美』を観直すのは楽しい。本放送でほぼ全話を観ているはずなのだが、それでも楽しめた。基本的にドラマをきっちりとやっている作品であり、バラエティに富んでいて、しかも1話完結。4本くらい続けて観ると、ちょっと贅沢をした気分になる。
 前々回で「日曜日のトリック」について、魔美の超能力が事件解決にまるで役立っていないと書いたが、改めてチェックしてみると、そもそも解決すべき事件がないエピソードもある。90話「わたし応援します!」(脚本/桶谷顕、絵コンテ・演出/原恵一)も、そんな話だ。今回観返して、特に面白いと思ったものの1本である。
 可南子という下級生が魔美に接近してきた。魔美のファンだという彼女は、魔美の前ではしおらしくしているが、幼馴染みの栗山と話す時には、いきなり態度が変わり、ため口になる。野球部に入っている栗山はお調子者で、ちょっと子供っぽい。野球が下手なくせに一所懸命に頑張っている栗山を、可南子は「ダサイ」と言って恥ずかしがる。そして、可南子は、魔美の父親である佐倉十朗の画のモデルになりたいとせがむのだった。彼女が魔美に接近したのは、自分もモデルになって、きれいに描いてほしいと思ったためだった。なんとかモデルにしてもらったものの、注目されたいためにそれを望んでいた彼女は、モデルとしては態度が悪く、十朗は描く事ができなかった。翌日も可南子はモデルをやったが、十朗の画が進んでいない事を知った彼女は「もうダサイんだから」と言って、アトリエから立ち去る。次の日、魔美は可南子を引っ張って、野球部の試合を見に行く。ここからが、この話のクライマックス。バッターボックスに立った栗山が懸命にボールへ立ち向かう姿を見ているうちに、可南子は彼を本気で応援してしまう。そして……。
 物語の前半、他の試合で栗山はデッドボールで出塁していた。その試合の前に可南子の頭を触っていた彼は、それをジンクスにして、嫌がる可南子の頭を触ろうとした。それが伏線。クライマックスの打席シーンで、可南子は試合中に栗山を呼び出して、自分の頭を彼に突き出して「ジンクスなんだろ。頭触っていいよ」と言う。その照れくさいやりとりが、この話のキモだ。その後、本格スポーツアニメのように盛り上がるが、栗山は力一杯空振りをして、三振してしまう。ヒットは打てなかったけど、頑張った栗山は格好よかった。可南子はこれからも、栗山の事を応援してやろうと思うのだった。
 青春と呼ぶにはまだ幼い2人のドラマを、軽い筆致で気持ちよく描いたエピソードだ。クライマックスの見せ方はややパロディ的で、笑いを誘うものだが、それも可南子と栗山のキャラクターに合っている。プロットの核となっている可南子の気持ちの変化はありがちなものだし、「ダサイ」なんて言って、努力する事を軽く考えてはいけないというメッセージは、少々説教くさいとも言える。ではあるけれど、このエピソードは、凡庸な仕上がりにもなっていなければ、説教くさい印象のものにもなっていない。それはドラマ作りが巧く、可南子と栗山のキャラクターが生き生きと描かれているためだろう。テーマを考えれば、自意識過剰で調子のいい可南子は、ドラマの中で否定的に扱われても仕方がないのだが、作り手は、彼女の言動を可愛らしいものとして扱っている。そのあたりも巧い。
 さっきも言ったように、この話では、魔美にとって解決すべき事件がなかった。栗山がヒットを打てても打てなくても、加南子のドラマは完結する。魔美は可南子がモデルになりたいと思った理由も知らないし、彼女が栗山をダサイと思っている事を問題だとも感じていないようだ。魔美が彼女を栗山の試合に誘ったのも、単なるノリであり、その事で彼女に何かを伝えようとしたわけではない。作り手にはこの話で解決すべきドラマはあったが、魔美が解決すべき事件はなかったのだ。だから、彼女が超能力を使う必要もない。超能力を使ったのは、栗山を応援に行くときのテレポーテーションと、彼が練習で疲れた時に、バットやボールを片づけるのを手伝ったサイコキネシスのみだ。魔美がドラマに介入しなかったのは、彼女が関わらない方が話のまとまりがいいと、作り手が判断したためなのだろう。全体を軽いタッチでまとめている事。そして、あえて魔美を物語の本筋に絡ませず、それでも面白い話に仕上げている事。そこに、ここまでに90本ものエピソードを作ってきたスタッフの余裕が感じられる。
 87話「記者になった魔美」(脚本/富田祐弘、絵コンテ/原恵一、演出/塚田庄英)では、プロットに感心した。学校の新聞部が記事を募集しており、魔美はポンポコの事を記事にして持っていくが、ボツにされてしまう。特ダネがほしい魔美は、母親の取材についていく。母親の菜穂子は新聞社で働いているのだ。高名な山岳写真家の萩原という男が、15年前にカメラを捨てて、山に籠もって羅漢像を彫り始めた。彼がカメラを捨てた理由とはなんなのか。それが菜穂子の取材テーマだった。
 魔美は超能力で、羅漢像から萩原の記憶を読みとる。かつて、萩原は雪崩で恋人を喪っていた。しかも、彼女が雪崩に飲み込まれる瞬間に、彼はその模様を撮影していたのだ。雪崩が起きる直前、萩原は恋人が危ない事に気がつき、一度は救出に行こうとしたのだが、劇的な雪崩という絶好のシャッターチャンスを捨てる事ができず、撮影を続けてしまった。そして、ファインダーの中で、恋人は雪崩に飲まれていったのだった。その自分の行為を悔いた萩原は、カメラを捨てて、五百羅漢像を彫り始めたのだ。
 菜穂子は取材前に萩原の過去の記事を集めており、彼が写真家を辞めた理由について見当をつけていた。萩原は取材を断り、3年後に500体の羅漢像を彫り終わった時には、その事について話す事ができるだろうと言うのだった。そして、菜穂子は羅漢像を見せてもらう。初期に彫った羅漢の表情はやや険しいものであり、最近彫った羅漢の表情は穏やかだ。笑みさえ浮かべている。15年かけて羅漢像を彫り続けて、ようやく気持ちの整理がついてきたのだろう。菜穂子は、取材を諦めて東京に帰る事にする。同行した若手記者は取材をするべきだと主張するが、彼女は今はそっとしておくべきだと言う。大衆には多くの事を知る権利があり、それを伝えるのがジャーナリストの仕事だ。だが、報道する事で人の心の傷を広げてはいけない。傷が癒えるまで放っておいてやるのも、ジャーナリストの役目だと言って、若手記者を説得する。その様子をずっと見ていた魔美は、母親のジャナーリストとしての優秀さ、人間としての思いやりの深さを知った。それを知る事ができたのは、魔美にとって特ダネをつかむよりも嬉しい事だった。
 このエピソードのプロットは、やや複雑だ。萩原のドラマはインパクトのあるものだが、それ自体についての描写は少ない。萩原の苦悩があり、それに対して菜穂子がどう考えて、いかに彼と接するかを描写し、それについて魔美がどう感じたかを描く。視聴者は萩原の苦悩に驚き、菜穂子の言動に感心し、魔美の喜びに共感するわけだ。
 荻原のドラマは、踏み込んでいくにはあまりに重たい内容であるし、それをせずに描写を少なくしたからこそ、かえって印象的になっているとも言える。プロットに関して、どこまでが富田祐弘のアイデアで、どれだけ原監督の意図が入っているのかは分からないが、この題材へのアプローチの仕方は富田さんから出てきたものではないかと思った。僕にとって、富田さんは軽妙な脚本を得意とするシナリオライターであり、題材との距離の取り方が彼らしいと思ったのだ。機会があったら、実際にはどうだったのかを確認したい。
 シリーズが始まったばかりの頃だったら、こういったプロットのエピソードは成立しなかっただろう。「わたし応援します!」と同様に、90本近くやってきたからこそ生まれた、作り手の余裕が感じられるエピソードだ。いや、原監督にそう言ったら「余裕はありませんでした。僕達には、ああいう作り方しかできなかったんですよ」と言うかもしれないが。

■第92回に続く


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販売元/ジェネオン エンタテインメント
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(06.12.14)

 
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