先日、池袋の新文芸坐で原恵一監督作品のオールナイトがあり、そのトークショーで僕は聞き手を務めた。その日の上映作品は『河童のクゥと夏休み』『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』の3本。『河童のクゥと夏休み』については、前から訊きたい事があり、よい機会なのでそれについてうかがいたいと思った。
それは「どうして『河童のクゥと夏休み』で、原監督は格好いい演出をしていないのか」という事だった。この場合の格好いい演出とは、いかにも実写映画のようなカット割りや、リアル感を強調する構図、あるいはそれらを含めたケレン味のある演出の事だ。
僕にとって、原恵一は格好いい演出をする演出家だった。デビュー作である『ドラえもん』からしてそうだ。彼が手がけたエピソードは「『ドラえもん』でこんな見せ方をするのか!」と驚くような見せ方のオンパレードだった。
原恵一が『ドラえもん』で傑作を連発していたのは、1980年代中盤。僕は当時、彼に興味を持ってアニメージュでインタビューをしている。記事自体は小さいものだけど、これは原さんが受けた最初の取材だった(1987年2月号130頁)。その記事で僕は「原さんの作品を傑作たらしてめいるのは、奇抜な画面構成とハッタリとさえ言える大胆さだ」と評している。20年前の僕は、ちょっと偉そうだ。
前にも描いたように、その後の初CD作品『エスパー魔美』を、彼は生活感を重視したスタイルで作り上げた。この時にも、派手ではないが格好いい演出が随所に見られた。近年の代表作である劇場『クレヨンしんちゃん』の『オトナ帝国の逆襲』『戦国大合戦』にしても、演出的なケレン味はあるはずだ。
『河童のクゥと夏休み』は原監督が長年暖めていた企画であり、制作にもたっぷりと時間をかけている。きっと凝った演出が駆使された、僕のようなマニアが喜ぶようなフィルムに仕上がっているのだろうと期待して、試写会に足を運んだ。ところが『河童のクゥと夏休み』はそんな映画ではなかった。物語はしっかりしている。勿論、演出的にも外してはいない。だけど、僕が期待していたような格好いい演出ではなかった。
それを意図してやっている事は分かる。たとえば最後の主人公が、クゥの入った段ボール箱を持ってコンビニに行くシーン。あそこをいかにも実写映画的な、格好いいカット割りで見せる事は原監督には簡単にできたはずだ。逆に、やたらと淡々と描いて「ほら、盛り上げないところが、逆に格好いいでしょう」といったかたちにしているわけでもない。他の日常描写にしても、いかにもリアルに、シャープな演出にする事はできたはずだ。それをあえてやっていない。それはキャラクターのデザインを華のないものにしている事とリンクしているはずだ。それも分かる。
原監督がそれを意図してやっているのは分かるし、その意図がどういったものなのかも見当はついた。ただ、その意図を原監督自身の言葉として聞きたかった。トークショーでは、最初にどうしてキャラクターのデザインをああいったストイックなものにしたのかという質問から始めて、原監督がいわゆるアニメ的な媚びた作品が嫌いだという話に展開。このトークショーのもうひとつの本筋である『オトナ帝国の逆襲』『戦国大合戦』の話を経て、どうして『河童のクゥと夏休み』で格好いい演出をしなかったのかという話題にたどりついた。
原監督の答えは「その方が誠実だと思えたから」だった。『河童のクゥと夏休み』は誠実に作りたいと思っていた。格好いい演出やケレン味のある見せ方をする事は、この作品では誠実ではないと思った。その誠実さとは作品に対する誠実さであり、観客に対する誠実さなのだろう。実際にコンテで描いている途中で、格好のいい演出になりそうだと思って、その描写を止めたこともあったそうだ。
なるほど「誠実さ」か。若い頃に『ドラえもん』で格好いい演出をやっていた原さんが、沢山の作品を手がけていった果てに「格好いい演出は誠実ではない」という結論にたどり着いた。演出家としての過剰な自意識が、作品のためには邪魔になったという事だろう。それが原さんにとっての最終結論なのかどうかは分からないが、すくなくとも『河童のクゥと夏休み』はそのように作られた。