アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その6 ジャングル大帝

 1965年10月、小学生の私は1本のTVアニメと出会います。虫プロ制作の『ジャングル大帝』。手塚治虫氏の大河マンガのTVアニメ化です。「少年」連載の「鉄腕アトム」や貸本屋さんで借りた「新世界ルルー」等ですでに大の手塚ファンになっていた私ですが、「ジャングル大帝」のマンガはまだ読んでいませんでした。多分それがよかったのでしょう。何の予備知識も先入観もなく、でも心待ちにして見始めた『ジャングル大帝』の、私はいきなりとりこになってしまいました。
 オープニングを彩る、冨田勲さんの雄大なメロディーと、豊かな声量の男性歌唱による主題歌に強烈なカルチャーショックを受け、崖の上をゆったりと歩む白いライオンの足並みと、広大なアフリカの風景に魅せられ、極めつけは無数のフラミンゴが舞い飛ぶ夢のようなシーン(後に「鳥の勝井」と異名をとる名アニメーター勝井千賀雄さんの手になるものと知ります)。
 第1話の、ジャングルの王パンジャの死、船中でのレオの誕生と、母との別れ、独りぼっちのレオを導くように飛ぶ蝶の大群……と、雄々しさと感傷、リリシズムが一体となったストーリー。エンディングの弘田三枝子さんの叩きつけるようにパワフルな歌声。全てが私の心を捕えました。
 2話以降、ジャングルに戻ったレオを待つ数々の事件を、ふんだんに歌曲を使い、ミュージカル仕立てで見せる贅沢な作り。動物と人間、動物同士の争いや誤解と対立を盛り込んだ展開は、世の中というものに目を見開き始め、少し大人びたものを望む年頃にぴったりでした。
 随分、模写もしました。苦手な人も多い、動物の逆関節の四つ足を後に難なく描けるようになったのもこの頃の修練(?)のたまものです。『ジャングル大帝』を通してアフリカそのものに興味を持ち、その歴史や自然、独立運動にも関心を広げ、図書館の本を片端から読み漁りました。
 『ジャングル大帝』は日本初の本格的カラー放送アニメというのが売り物で、スポンサーは三洋(サンヨー)電機、エノケン(榎本健一)がダミ声で歌うカラーテレビのCMは今も耳に残っていますが、カラーTVの普及率はまだ低く、放送開始当時の我が家も白黒TVでした。当時はカラー番組放送中のTV画面の隅には誇らしげに「カラー」という表示が出ていて、それを見ながら、カラー放送で見たらどんな風なのだろうと想像を膨らませていました。
 実際にカラーの『ジャングル大帝』を見たのは翌年7月、再編集による長編映画となってスクリーンに登場した時が最初です。東宝の「サンダ対ガイラ」の併映でした。宣材等で見て、すでに色調は知っていたと思うのですが、大画面で見る原色鮮やかな『ジャングル大帝』の世界に私は改めて感動し、深く引き入れられました。実際には昼なお暗いジャングルや、強烈な太陽光に灼かれてくすんだサバンナを、抽象的な原色が映える美術に仕立てた虫プロの苦心の様は、この映画の監督を務めた山本暎一さんの著書「虫プロ興亡記」(新潮社刊)で知ることができます。
 10年程後だったでしょうか、アニメ作品の一部を8ミリ化した商品がいくつか通信販売されるようになり、私は『ジャングル大帝』を購入しています。映写機を叔父に借りて自室で見た、その8ミリフィルムは転居を繰り返した今も手許に眠っています。
 また、1969年の虫プロ作品『どろろ』のTV放送開始の宣伝を兼ねて各地でイベントが開かれ、私の住んでいた群馬県高崎市では、今はもうなくなってしまったデパートの上階で、虫プロ作品の展示や商品販売、暗幕で区切った中での『どろろ』第1話の上映会等が行われました。身近にアニメショップなどない時代です。私はここで『ジャングル大帝』の背景つきセルを何枚か買っており、それは今も実家の部屋にしまってあります。何で知ったのか、その頃はすでにアニメの制作過程についての知識もあり、一緒にいた女の子にセルの仕上げ方(動画をセルにペンでトレスし、裏からペイントする)を教えたりもしたものです。アニメの仕事への憧れが芽生え始めたのもこの頃のことです。
 「ジャングル大帝」のマンガ自体は、放送に合わせて出版された小学館のサンデー・コミックスで読みました。アニメ版とは全く違う、キャラクターが複雑に入り組んだ大河成長物語、最終巻でレオもライヤも死んでしまうことに激しい衝撃を受け、ラストシーンの、無常感をたたえたレオの形の雲は強く心に焼きつきました。それ以来ずっと、今も、真夏の雲の峰の中にレオの形の雲を探してしまうのです。
 『ジャングル大帝』の脚本はベテラン、辻真先さんが中心です。この辻さんとは後に人生を変えてしまう程の出会いをし、影響を受けるわけですが、それはまた別の話。

その7へ続く

(07.04.20)