アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その105 1979年の思い出

 1979年は日本のアニメ史の中でも特別な年でした。長年かけて地中に蓄えられていたアニメファンという水脈に『ヤマト』が穴を穿ち、一気に噴き上がった水流の上に鮮やかな虹がかかったような、そんな奇跡的な年だったのです。
 劇場アニメでも歴史的な傑作が次々と誕生しました。3月には東映動画の『龍の子太郎』。これは東映まんがまつりの一篇で75分とやや短めではありましたが、監督を巨匠・浦山桐郎さんが務めた異色作で(アニメーション監督は葛西治さん)、主人公の母の声を浦山監督ゆかりの吉永小百合さんが担当されたことでも記憶されます。そしてアニメファン的にはキャラクターデザインと作画監督を東映動画出身の小田部羊一・奥山玲子ご夫妻が務めていることが一番の喜びです。お2人がそれぞれに東映動画を退社されて幾歳月、かつての古巣に戻られて健筆を揮われたことはアニメの歴史がひと回りしたかのような感慨があります。森康二さん以来の東映長編の佳き伝統を受け継ぐ気品のあるキャラクターデザインに、日本画科出身の小田部さんの感覚がプラスされた画面は、水墨画調にまとめられた土田勇さんの美術と相まって格調高く仕上がっています。もっとも野球(王選手のホームラン記録)を意識したアクションを取り入れるなど演出的にはやや疑問なシーンもありはするのですが。
 8月には2時間9分の大作『銀河鉄道999』が登場。松本零士ブームと同名のTVシリーズのヒットを受けての長編映画化でしたが、主人公・星野鉄郎の年齢を上げキャラクターデザインを一新したことが奏功し、小松原一男さんの美麗なキャラクターデザインと、りん・たろうさんのロマンティシズムあふれる演出が奏であい、美しい叙事詩のような青春映画の味わいがあります。特筆すべきはやはりこの時代を代表する若手アニメーターである友永和秀さんと金田伊功さんの作画の競演で、時間城と惑星メーテルの崩壊を滅びの美さえ感じさせる圧倒的な画力で描き出したシーンは圧巻でした。作画監督の小松原さん自身も加え、下請けプロを転々としながらTVシリーズの中で腕を磨いたアニメーターの力が大スクリーンで花開いたのは、それまで業界内にあった本社社内班と下請けという暗黙のヒエラルヒーの崩壊でもあり、アニメ史的な転換点とも言えます。また999号が新たな宇宙へ突入する際のアブストラクトなカットは当時、小松原さんのオープロにいた動画マンであり個人アニメ作家でもある相原信洋さんの手になるもの。オープロではしばしばそうした個人作品の鑑賞会が行われており、その実力を小松原さんが推挙して実現したものです。それを受け入れたりん監督の英断とともに記録されるべき事柄と言えましょう。
 9月には東宝の配給で劇場版『エースをねらえ!』が公開されています。不本意な形で終了しながらも再放映で人気を伸ばしたTVシリーズの、満を持しての映画化です。監督の出崎統さん、作画監督の杉野昭夫さん、美術の小林七郎さんの黄金トリオの力の集大成とも言え、原作を独自に咀嚼したストーリー展開もキャラクターの解釈も素晴らしく、原作を離れてひとつの青春映画として結実しています。高橋宏固さんの撮影技術の秀逸さも透き通るような煌めきに満ちた画面に貢献しています。
 そして12月にはこのスペシャルイヤーの掉尾を飾るかのごとく『ルパン三世 カリオストロの城』が登場します。前年のTVシリーズ『未来少年コナン』で自らの世界を渾身の力で描き出した宮崎さんが初めて挑んだ劇場長編です。『カリオストロ』は私自身にとっても思い出深い、人生を変えてしまった作品です。アニドウで出したコナン本の編集を通して宮崎さんと親しくなった私は、その頃しばしば宮崎さんのもとを訪れ、また宮崎さんもオープロを訪ねては私を愛車シトロエン2CVに乗せてくださり、近くを走りながら取り留めもない話を交わすという日々でした。おそらく『赤毛のアン』を続けるか否か内心悩まれていたのでしょう。そして『アン』を降板された宮崎さんの自宅を訪ねた私に宮崎さんは、実は今、大塚康生さんから『ルパン』の2本目の映画に誘われていることを話してくれました。私はもう反射的に「是非やってください! これはチャンスですから!」と強く訴えました。その当時はまだ長編アニメの監督というのは誰でもできるというものではなく、現在の世界的巨匠である宮崎さんしか知らない世代の人たちには想像もつかないかもしれませんが、当時、対外的にはTVシリーズ1本を作っただけの宮崎さんにとっては、一生に一度あるかどうかの大チャンスだったのです。しかも作画監督は気心知れた大塚さん。こんな好機はまたとあるものではありません。宮崎さんが作る世界を、長編をもっと見たかった私はとにかく必死でした。でも本当は宮崎さんの心は決まっていたのだと思います。そうしてできあがったのが、かつて宮崎さんたちがAプロで手がけた(旧)『ルパン三世』から時を経て直結する世界としての『カリオストロ』でした。オープロは作画として参加しましたので、私も動画をやりました。準備期間には当時の仕事場へ宮崎さんに会いにいき、そのたびにイメージボード等を見せていただきました。原画では、名作シリーズで磨かれた篠原征子さんの緻密な芝居と、カリオストロ城の歯車の間で戦うシーンを担当した友永さんのものが印象に残っています。歯車の上でルパンの攻撃を受けて横へカニ歩きするカットは絵コンテにはなく、友永さんが原画で付け加えた動きです。作画は予定よりも遅れて進行していました。最終的には宮崎さんの判断で当初の構想とはやや縮小したものになったと聞きます。オープロでのラストカットは相原さんが作画した本編中のラストシーン、ルパンたちのフィアットが車列の中に小さく紛れていく大判の動画でした。ちょうど私の隣の席に座っていた相原さんが苦労しながら徹夜で動画を描いていたのを思い出します。
 一観客に戻って映画館で見た『カリオストロ』は、それは素晴らしいものでした。今も私のアニメのベスト5には入るでしょう。しかし興業的には惨敗でした。一般のルパンファンからは、おじさまルパンに対する反感が強かったようです。それでも『カリオストロ』に魅せられた人は着実に存在しました。宮崎ファン以外ではいわゆるアニメファンよりも映画マニアの中に評価する人が多く、森卓也さんの評はその代表です。森さんはこれによって宮崎アニメに目を開き遡る形で作品を辿っていったそうです。封切興業は惨敗でも当時はロードショウの後に二番館、三番館での上映がありました。学園祭等でも『カリオストロ』はしばしば上映されました。私はアニドウの中でも『カリオストロ』のファンだった五味くんとよくあちこちへ見に回ったものです。結果的にはこれがきっかけになって宮崎ご夫妻に仲人をお願いしての結婚となるのですが、それはまた後の話です。公開後に宮崎さんのもとを訪れ「とてもよかったです」とうっとりと話す私に宮崎さんは「ぼくは富沢さん(私のこと)がルパンやってくださいと言うからあれを作ったんですよ」と言われました。有難くて一生、心に残る言葉です。
 しかし光あるところ影があるように、アニメブームに沸く中でオリジナルスタッフの意向を無視して作られた再編集映画『アルプスの少女ハイジ』や再編集とセリフの改変によって180度違う内容になってしまった『未来少年コナン』、制作されたものの一般的な公開に至らなかった『海のトリトン』のような問題作があるのもこの年です。

 TVアニメの方も百花繚乱の様相で、あらゆるジャンルの作品が出揃い、特撮ヒーローの雄ウルトラマンさえも『ザ・ウルトラマン』としてアニメで登場したあたりがブームのブームたる所以と言えるでしょう。『サイボーグ009』や『ドラえもん』『新巨人の星II』『SF西遊記スタージンガーII』『科学忍者隊ガッチャマンF』等のパート2ものが多いのもこの年の特徴で、これは企画の払底を示すのかもしれません。
 その一方でTVスペシャルと呼ばれる単発作品の増加もあります。『まえがみ太郎』『怪盗ルパン 813の謎』『ジャン・バルジャン物語』『アンネの日記 アンネフランク物語』等、今では歴史に埋もれてしまったかも知れない作品が並ぶ中で、森やすじさんと百瀬義行さんがキャラクターデザインを手がけた『トンデモネズミ大活躍』のような作品も生まれています。また114分の『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』もあり、やはり『ヤマト』は時代の趨勢を表わすタイトルと言えるようです。これらTVスペシャルのアニメは放送時間も昼夜様々な上に、75〜84分と長く、仕事の合間に見るにも努力を要するようになり、実はこのあたりから私としてはTVアニメの視聴離れが始まってしまっています。
 とはいえ、前述の『ドラえもん』は現在までも続くロングタイトルに成長しましたし、『009』は金田伊功さんが手がけたOPアニメが、名主題歌「誰がために」と合わせ、それ単独でもひとつの作品としてなりたつほどの完成度を誇り、同年の『くじらのホセフィーナ』でのスタジオZ担当回とともに、金田ファンにとっての至福の時間は続いていました。
 名作劇場の代表作の1本とも言える『赤毛のアン』もこの年の成果です。近藤喜文さんの個性と気品あるキャラクターデザインは清新なものでしたし、高畑勲さんの客観に徹した的確な演出は、登場人物が実際に隣にいるかのような存在感を際立たせていました。
 私はオープロで『アン』の動画を担当していましたが、高畑さんの絵コンテと宮崎さんのレイアウトの葛藤は無責任に言うならひとつの見ものではありました。例えばアンが教室で詩を暗唱する場面は、絵コンテではナチュラルな少女の芝居が描かれていますが、宮崎さんの手を経たレイアウトでは、とてもオーバーにカリカチュアされたそれになっていました。『コナン』で自分の世界を明確に掴んでしまった宮崎さんにとって、それまで以上に日常芝居に徹した『アン』の世界は自分のいるべき場所では最早なく、しかし自らの職分を全うするためのそれは精一杯の発露だったのです。レイアウトと言えば、オープロでは友永さんも原画で参加していたのですが、彼が担当した第1話のハイライトシーン、白い花が画面一杯に舞うシーンのレイアウトに宮崎さんの文字で「この作画に一番必要なものは忍耐です」という意味の言葉が書かれていたのが印象的です。
 結局途中降板となった宮崎さんの後を受けた桜井美知代さんの仕事は見事なものでした。当初こそスケジュール的混乱が生じましたが、桜井さんの描き出したレイアウトは宮崎さんが全く採らないような角度のもの等が見られ、大いに感服したものです。後半の落ち着いた『アン』の世界は桜井さんの貢献によるものと思います。
 長浜忠夫さんと出崎統さんが前後を分け合う形になった『ベルサイユのばら』もそのどちらにも魅力があり、池田理代子さんの原作マンガ、宝塚での上演による大ブームも合わせ、これも時代を代表する作品と言えるでしょう。
 そしてこの年はやはり『機動戦士ガンダム』を置いては語れません。第1話の放送をオープロのリビングで1人で見ながら、全く新しい作品が始まったとの感慨を受けたのを覚えています。ロボットもの(当時はまだリアルロボットという区分は存在せずMSという言い方も一般的ではなかったと思います)でありながら、従来のそれらとは一線を画す感覚。どのくらい前だったか「1/24」でのインタビューに答えて富野さんが言った「(当時の主流の)トリコロールばかりでなく全身真っ白のロボットがあったっていいじゃないか」の意がここに実現しているのだと思いました。もちろん色についての言及はひとつの象徴に過ぎません。当時一番驚き感心したのは、新型MS登場の背後に稲妻が走るカットです。従来的なロボットものではそれは強さを表わす一種のハッタリ的な演出に過ぎません。ところが『ガンダム』ではそれを地球の大気がもたらす現象とし、宇宙で生活していた彼らが初めて体験する未知の驚きをもって表現されていたのです。SF心が大いに刺激されたのは言うまでもありません。と同時に富野さんの意気地に感じ入りました。現在では一種の作品的な落としどころとされているニュータイプの概念にも感銘を受けました。人と人が直接精神で感応し分かり合うことができる世界というのは、私にとって理想でした。最終回の感動的なラストシーンを含め、私にとってのファーストガンダムは人がよりよく進化していくことができる可能性を持つ希望の物語だったのです。

その106へつづく

(11.04.15)