その108 『未来少年コナン』、作品とその頃
『未来少年コナン』とは何かと言えばそれは漫画映画である。この一語に尽きてしまうのです。もっと付け加えるなら、宮崎駿という作家の監督デビュー作であり、その時点で持てるテーマ、モチーフ、技術、思いの全てを注ぎ込んで作り上げた偉大なる漫画映画ということになります。
『コナン』に至る道のりを見てみましょう。アニメ史に初めて現れる宮崎さんの刻印は東映長編『ガリバーの宇宙旅行』です。まだ新人動画マンに過ぎなかった宮崎さんが、その映画の構造を根底から引っくり返してしまうアイディアを出し、自ら作画したこと(人形の格好をしていた宇宙のお姫さまのカラが割れ、中から人間の姫が現れるシーン)は有名です。その後、詳細は略しますが『ホルス』『長靴をはいた猫』『どうぶつ宝島』『空飛ぶゆうれい船』『パンダコパンダ』に『(旧)ルパン』『赤胴鈴之助』等も含め、一貫して創作に深く関わる立場を担い、そのどれにも宮崎印としか言いようのない明確な痕跡を刻んできました。そして続く『ハイジ』『三千里』での場面設定・レイアウトの仕事。ここまでで重要なのは大半を名演出家であり論理の人、高畑勲さんと共に過ごしていることで、言ってみれば一番身近な位置で高畑演出の極意を浴び吸収してきたことです。これが演出家としての宮崎さんの土台となっていると言えるでしょう。
それまで創作的な立場を担ってきた宮崎さんが、『ハイジ』や『三千里』の超過密スケジュールの中で、十字軍に入ったペーターがフランクフルトのハイジを救出に来るエピソードや、アルゼンチンの荒野を戦車が走る場面を夢想しながら職人的な役割に徹した日々。その夢想と現実の差をジャンピングボードとして『コナン』が生まれたと言っていいでしょう。その差が大きければ大きいほどボードのたわみも大きく、ジャンプの度合いもまた大きいものです。爆発と喩えられるほどにあふれる作家性、大塚康生さんに「獅子奮迅」と言わしめたパワフルかつ八面六臂の働きぶり。全身を、足の指先まで使って動き回るコナン、真っすぐに感情を表すコナン。物語に沿って人物が動くのではなく、動くことによって物語が紡がれていく情動主体型の展開。それはそのまま当時の宮崎さんの内にあったものの迸りだったでしょう。
最初の作品にはその作家の全てが表れると言われますが、『コナン』も本当にそうだと思います。喜怒哀楽を全身で表す肉体的な感情表現、清純なお姫さまへの幻想と有能な大人の女性への憧れ、登場人物の心の解放と浄化、行き過ぎた科学文明への懐疑と自然への回帰志向、古式ゆかしい手作りの機械への愛、卓抜な空間把握能力とそれを有機的に使いこなす演出力等々はもちろん、本放送時にはやや残念にも思えた野生児コナンが賢いよい子になっていくこともそうです。むしろ賢いよい子の方が宮崎さんの中で素直に主人公として存在しているのでしょう。放送当時究極の理想像に思えたコナンが、後に連なる宮崎作品の系譜にあってはむしろ異色の存在と感じられます。このあたり、先ほど述べたジャンプの勢いがタガを外してしまった結果と言えるのではないでしょうか。
『コナン』の魅力の多くは、宮崎さん自身が優れたアニメーターであることに拠っていると思います。とにかくこれほどまでによく動き回るアニメは見たことがありません。それも単に動くのではなく、ことごとく心地よい、動きの快感を伴っているのです。動いてこそ、動かしてこそのアニメ。アニメならでは、という言葉がこれほど似合う作品も少ないでしょう。演出家自身が稀代のアニメーターであり、最も効果的な見せ方、動かし方を、作画のみならず撮影、編集に至るまで熟知していること。これほどの強みはありません。ここぞというカットには宮崎さん自身の手になる何枚もの参考原画が添えられ、時には「いい絵に!」の指示が書き込まれていたものです。
宮崎さんの奮戦を支えたのが大塚康生さんでした。私は『コナン』に限らず、宮崎さんと大塚康生さんがタッグを組んだ時が互いにその持てる力が最高に発揮されるような気がします。『ホルス』『長靴をはいた猫』『(旧)ルパン』『コナン』そして『カリオストロ』。互いのポジションは違えど、いずれも生き生きとした生命力あふれる動きで、見る者を魅了してやみません。長い付き合いを通して互いに分かり合い信頼し得た人柄と技量。『コナン』が『カリオストロ』が演出宮崎駿、作画監督大塚康生のコンビでなかったら、果たしてあれだけの躍動感と爽快感を持ち得たかどうか。本当に幸せな出会いの上に生まれた作品だったと思います。『コナン』では宮崎さんが2話以降のラナを一手に引き受け、大塚さんは全体を見渡しつつ、ダイスやジムシーに傾注するという役割に回りました。それがむしろ全体に膨らみを与えています。大塚さんの描く動きは実践的な理論に支えられながら決して堅苦しくなく自由で、いい意味での世俗的な感覚があります。アクションの冴えに圧倒されつつも見ていて安心するのです。全幅の信頼で任せられる大塚さんがいたからこそ、宮崎さんは自らの世界の構築に邁進できたのだと思います。小品でもよいので、いつかまたこの2人がタッグを組んだアニメが見られたらと心から願います。
『コナン』の制作当時、アニメ界は愛とロマンを掲げたSFアニメブームの只中でした。宮崎さん自身、王道を歩んでいたつもりが気づいたら銀河系の外れにいたという意味のことを述べていましたが、時が過ぎ、宮崎アニメは本人の意思と関わりなく、世界に通用する普遍的なものとなり、ブランド化し、今やひとつのジャンルとさえなりました。銀河系の中心と言ってもいいのかもしれません。しかし、この間にチェルノブイリ事故が起き、ソ連が崩壊し、民族紛争は拡大し、とどめのように福島原発の惨事が起きました。もう二度と『コナン』のような活力を持った作品が生まれることはないでしょう。宮崎さんの近作短編『パン種とタマゴ姫』でも、魔女の手を逃れたタマゴ姫が美しい少女へと変貌することはありません。今はそれを必要としない時代だと宮崎さんは言います。夜空の星の煌きは実際は遥か遠い過去に発せられた光だそうです。そのように、今も強烈な輝きを放ち続ける『コナン』は二度と還らぬ時代からの光であるのです。
放送当時のオープロではリビングのTVで『コナン』を見ていました。アニメーターというのは、自分たちが手がけた番組はもちろんですが、勉強になると思われる作品は見逃しません。アニメ史上のエポックと言われながら私1人がぽつんと見ていた番組もありましたが、『コナン』の時は始まる前から皆がTVの前に集まっていたものです。東映班の小松原一男さんは特に熱心で、いつも一番前のソファに座って見ていました。今も覚えているのがコナンが小屋に捕えられているシーンで、「これ(窓格子)はBG(背景)だから破れないね」「おっ、セルに換わったから外れるぞ」等と冗談を言いながら真剣に見ていました。『コナン』班以外で一番熱心に見ていたのではないでしょうか。後に宮崎さんが広く世の中に認知されるきっかけとなった『風の谷のナウシカ』の作画監督を小松原さんが引き受けるに至る礎は、ここでできていたのかも知れません。私にしても絵コンテを見て展開を知っているにも関わらず、巧みな演出に乗せられて、次回でモンスリーが死んでしまうのではないだろうか等とドキドキしながら見ていました。とにかく『コナン』の放送の後は社内の空気が少し熱かったものです。
この頃、前後して新人が入ってきました。後に才田夫人となる池田淳子さんと、高坂希太郎さん。同じ部屋にいると他の人の動画が目に入る機会もあるもので、ふと目にした池田さんの、普通なかなか描けないような瞬間を捉えた動画には上手さに舌を巻きました。高坂さんは高校を終えたかどうかという若さで粘り強く動画机に向かっていました。流行の爆発を描きたいと言っていた彼が、今やスタジオジブリをはじめ日本のアニメ界に欠かせない実力派アニメーターであるばかりか、快作『茄子』等を手掛ける監督になろうとは、当時思いもよりませんでした。宮崎さんをはじめ、時代は刻々と新しい才能を生みつつある、そんな頃でした。
その109へつづく
(11.05.27)