その112 それから
「1/24」第30号は1980年11月に発行になりました。表紙に中国の長編アニメ『ナーザの大暴れ』、裏表紙に『カリオストロ』のイメージボードをオールカラーで印刷し、巻頭16ページ分にもイメージボードをオールカラーで載せた豪華な作りでした。途中のページには柳原書店の「手塚治虫初期漫画館」、奇想天外社刊、中子真次さん編著の「超SF映画」等の広告が載っており、商業誌としても通用する体裁です。内容は『カリオストロ』の小特集といった趣で常連の論客の作品評を中心に構成されていますが、そこに私の文はありません。当時の読者で不思議に思った方もいらっしゃったかもしれませんが、理由は前回記したとおりです。この号には私が先に書き上げていた『地球へ…』と『森は生きている』の感想や編集後記、宮崎駿さんが私に宛てた私信を元にした「フライシャーに思う」も載っていますので、裏でそんな変事が起きていたとは誰にも分からなかったことでしょう。『カリオストロ』のイメージボードも、実は宮崎さんから「富沢さんにあげます」と直接個人的にいただいたものだったのですが、その後、私の手元に戻ってくることはありませんでした。
私はあの夜、バッグひとつ持っただけで部屋を出てしまったので、私物は全部アニドウの事務所に置いたままでした。辞書やノートが必要になり、誰とも顔を会わせないようにアニドウが上映会を開いている日時を選んで荷物を取りに部屋に入りました。無人と思った部屋の真ん中で座卓に向かって知らない男の人が原稿をまとめていました。それが後にアニメーション協会や漫画家協会、自主制作グループえびせん等で大活躍することになる片山雅博さんでした。片山さんは自ら企画した鈴木伸一特集の作業をしていたのですが、その時は知る由もありませんでした。私は動揺し、本棚に入れてあった「アニメーション入門」他の書籍を置いたままにしてしまいました。
私が使っていた机の上には新しく「1/24」の定期購読用の振込み用紙が置かれていました。私が採っていた為替を封書で送ってもらう方式は時間も手間もかかりますが一緒に手紙を添えてもらうことで読者との触れ合いを図っていたのです。振込みにそれは望めません。編集にも事務にも居場所を失ったような気がして寂しさが募りました。そんな私の気持ちに頓着なく、新しい「1/24」が出るといつの間にか会社の私の机の上に、社内で売るようにとまとめて置かれていました。おかげで手にすることはできたけれど、それはやはりつらいものでした。
私は今まで以上に仕事に打ち込みました。息を詰めてひたすら動画を描き進めていく私の鉛筆の音が猛スピードで響いて恐いようだったと後で後輩から聞き、苦笑したものです。オープロではちょうど自主制作の『セロ弾きのゴーシュ』に取りかかっており、演出の高畑勲さんが社内の小部屋に詰めていました。原画は才田さんが専任となり、1人で全てを描きました。このために実際にチェロの教室に通って描き上げた作画と間宮芳生さんの音楽のシンクロぶりは見事なものでした。動画は全員参加が原則でしたが、私を含む日本アニメ班数人が中心になっていました。動画の単価はどの作品よりも高く、完成までは収益のない作品を進めるための幹部連の努力は大変なものだったと思います。
この頃、オープロが手伝いで受けた仕事に、虫プロの長編『ゆき』(1981年8月公開)の動画があります。一般には3コマ撮りで中3枚の動画が普通なのですが『ゆき』は2コマ中4枚のカットが多くて描きにくく、動画チェックも厳しくて苦労しました。この作品で初めて下請け動画マンの私たちも打ち上げパーティに招かれました。会場は立食形式でアニメーターには見たこともない豪華な料理が並んでいたのを覚えています。
こうして仕事をしていても、アニドウの上映会の日になると他の社員の人から一緒にと誘いの声がかかります。あの日のことは誰にも言いませんでしたし、つい先月まで自分が誘う側だったのだから当然です。毎回理由をつけて断るのも心苦しく、私は上映会の日に別の予定を入れてしまうことを考え、アパートの近くのスイミングスクールに通うことにしました。宮崎さんが『パンダコパンダ』について言った「水中から見ると世界が違って見える」という言葉が印象的だったからです。海なし県に育ったカナヅチの私は、クロールで泳げるまでになりました。スクールの帰りには近くにあった貸本屋さんで、先頃お亡くなりになった和田慎二さんの「スケバン刑事」を借りて読んだりしたものです。
さらに仕事に打ち込むために、社長の村田氏に頼んで原画をやらせてもらうことにしました。当時は仕事は習うより慣れろで原画も自己申告制でした。初仕事は日本アニメーションで森やすじさんがキャラクターデザインをされた『フーセンのドラ太郎』。「男はつらいよ」をモチーフにしたアニメで、キャラクターは森さん得意の擬人化された動物になっていて、フーテンの寅ならぬフーセンのドラ太郎はトラネコでした。レイアウトシステムのない作品だったので、絵コンテだけが頼りの真っ白い用紙を相手にする仕事は動画とは全く違う難しさがあり、パースやデッサンの必要性を痛感しました。
教室に通ってデッサンやクロッキーを一から勉強し直そうと思ったりもしたのですが、編集や上映会の運営が好きという自分の心を押し殺しての日々はストレスが強く、やがて不眠に悩まされるようになりました。会社近くの薬局で薬剤師の男の人が「いい薬がありますよ」と声をかけてくれましたが、どことなく不審なものを感じて断った数ヵ月後、その薬局は睡眠薬の横流しで摘発され、新聞にも大きく載りました。誘いにのっていたら巻き添えを食っていたかも知れません。体調もすぐれず出血しがちで内臓がひどく荒れているとの診断を受けました。視力も落ち、近くのTVを見るにもそれまで持っていなかったメガネが必要になっていました。ちょうどその頃、アニドウの飯田くんがオープロに入社するとの話を聞きました。あの日以来、並木さんは少なくとも私がいる時間帯にはオープロに姿を現しませんでしたが、飯田くんが入社するとなれば話は別です。否応なくアニドウの情報が入ってくるでしょう。私は退社することを決めました。それらから逃げるために。
先輩の束田さんが呼びかけ、送別会を開いてくれました。小松原さんが寄せ書き帳の表紙にメーテルの横顔を描いてくれ色々と気遣ってくれました。並木さんは最後の日まで顔を見せませんでした。後で知ったことですが、私がアニドウに顔を出さないのは仕事が忙しくて休んでいるということになっていたそうです。でも実際は多くの人が突然姿を見せなくなった私のことを案じてくれていたことを最近になって知りました。私には本当はたくさんの味方がいたのに、弱った心にはそうしたことが全く見えなくなっていたのでした。申し訳なかったと心から思います。
オープロを辞めて別の会社に移ることは全く考えませんでした。どこへ行ってもアニドウの影がつきまとうだろうと思ったのです。いっそアニメ界と縁を切ってしまえばと思い、就職情報誌で全然関係ない就職先を探して決め、出社を控えたある夜、張り詰めていた糸が切れました。今風に言えば心が折れたということでしょう。子供の頃からアニメが好きで、高校時代に「COM」の辻真先さんの文で東京アニメーション同好会(アニ同)を知り、入会したい一心で東京への進学を決め、上京して10年近く文字どおり命がけで頑張ってきたというのに、それを失った今、東京にいて何になるのだろう。気がついた時、泣きながら受話器を握っていました。転職を止め、アパートを引き払い、帰郷することを決めていたのです。前年に『ゴーシュ』の完成を見届けた1982年の冬でした。
その113へつづく
(11.07.22)