その120 広島国際アニメーションフェスティバル
1998年の春、3度目の転勤で再び広島で暮らすことになりました。また前のように広島国際アニメーションフェスティバル(以下広島フェス)に行けると思えば嬉しい出来事でした。
広島フェスは、原爆投下を扱った衝撃作『ピカドン』で広島市とゆかりの深いアニメーション作家でありASIFA(国際アニメーションフィルム協会)副会長であった木下蓮三・小夜子夫妻の尽力によって1985年に第1回が開催されました。現在の主催は広島国際アニメーションフェスティバル実行委員会、広島市、(財)広島市未来都市創造財団で、共催がASIFA日本支部であるASIFA-JAPAN、アジア初のASIFA公認のフェスティバルであり、大会会長は歴代の広島市長が務めています。木下蓮三さんはフェスティバルプロデューサー、小夜子さんはフェスティバルディレクターとして大会を推進発展させてこられました。まだアニメーションが現在ほど社会的に認められていない時代、新たな道を切り拓く困難はいかばかりだったでしょう。
第1回大会に私は参加できませんでしたが、前例のない催しだけに派生した数々のトラブルは人伝てに見聞きしています。そしてそれと同時に、今まで文献の中の存在だった世界の巨匠たちと歴史上の傑作、ほとんど初めて目にする国々の作品に直接触れ、言葉を交わすことさえ叶った感激もまた。第1回のガイドブックに木下蓮三さんは次のように書かれています。「日本からアジアから新しいアニメーション作家が生まれてくることを期待すると同時に近い将来こういったアニメーションを認める時代がやってくると確信しています」と。そしてその言葉は広島フェスが回を重ねるにつれ現実のものとなっていきました。
私が広島フェスに行けたのは1987年の第2回からです。最初の転勤から半年、下の子供は1歳になったばかり。でもどうしても行きたかったので、実家の母を拝み倒して来てもらい、留守を預かってもらいました。と言っても、勝手の分からぬ地で後を任せきりにするわけにはいかず、プログラムの合間を縫って会場と自宅を往復し食事を届けたり、目の回るような日々でした。この第2回大会の国際名誉会長はカレル・ゼマンさん、スペシャルゲストにASIFA名誉会長のジョン・ハラスさんを迎え、全応募作品の中から公開審査用の作品を厳選する国際選考委員には鈴木伸一さん他5人、コンペティションで観客とともに作品を鑑賞し入賞作を決定する国際審査委員に手塚治虫、特偉、ブルーノ・ボッツェット、ポール・ドリエセン、ユーリ・ノルシュテイン、ニコル・サロモンの各氏という錚々たる顔ぶれでした。当時のコンペティションカテゴリーは制作目的と時間によって6つに分けられており、カテゴリー毎の受賞作と、全作品の中からグランプリ、ヒロシマ賞、デビュー賞、国際審査委員特別賞が選定されていました。第2回大会ではグランプリをフレデリック・バックさんの『木を植えた男』、5分以内のカテゴリーEでジョン・ラセターさん他の『ルクソーJr.』が受賞、石田卓也さんの『はうはうでんでん』、やまむら浩二(当時の表記)さんの『水棲』がインコンペするという歴史的な結果となりました。第1回のグランプリ受賞者であり大会副会長も務める手塚治虫さんに対して、お茶目なノルシュテインさんの発案で審査委員全員がベレー帽を被って迎えるというパフォーマンスも微笑ましいものでした。
1990年の第3回では子供2人を連れて会場に通いました。幼児をコンペ会場に入れるのは迷惑なので、ガイドブックを熟読して見る作品を決めロビーで待機、おやつを食べさせておきながら時間を計って自分だけホールに入り、見てすぐに退場と綱渡りのような鑑賞を繰り返しましたが、ニック・パークさんの『ウォレスとグルミット』シリーズ第1作となる『すばらしい一日』やベルナール・パラシオスさんの『雪深い山国』等々を見届け、満足感で一杯でした。
1992年の第4回大会は一際心に残るものでした。国際名誉会長にディズニープロの大ベテラン、ウォード・キンボールさんが決定、再来日されたのです。ローカルニュースで平和公園の慰霊碑を訪れる姿が流れ、地元にいる幸せを噛み締めました。キンボールさんの再来日はアニメ界の大ニュースなのにアニメ誌に取り上げられることもない状況に業を煮やし、自分で同人誌を作ることにしました。おかだえみこ、森卓也、渡辺泰、鈴木伸一さんたちディズニーフリークの方々に原稿をお願いし、友人たちにも声をかけ、当時広島市文化振興事業団職員として大会に関わっておられた叶真幹さんにインタビューをし、80ページの「みんなで語ろうHIROSHIMA4」を約1年後の1993年7月に発行しました。この大会では国際審査委員に敬愛するジャン・F・ラギオニーさんと持永只仁さんが参加されていることも原動力になりました。会場ではラギオニーさんの『大西洋横断』と長編『グウェン』を見ることができ、深い感銘を受けました。日本と中国の人形アニメの父である持永只仁さんは、前回から大会組織委員会副委員長を務めておられ、今大会には13分の最新自主制作『少年と子だぬき』を携えての参加でした。持永さんはすでに第一線を引かれ、ご自宅をアトリエに16ミリでこつこつと作り上げられた作品には子供たちを喜ばせたいとの純粋な善意と愛が一杯に込められており、受賞を競うコンペ作がひしめく中で別次元の輝きをもって私の心を捉えました。波乱の人生を送られながら大人(たいじん)の風を持つ持永さんと奥様の睦まじいお姿を拝見することは、以後の大会参加の喜びのひとつとなりました。またこの第4回でグランプリを受賞したポール・ベリーさんの『サンドマン』はショッキングなラストに賛否が沸き立ち(私は賛成派)、後の観客投票による観客賞設立の遠因ともなりました。
第1回のガイドブックで木下蓮三さんが書かれたように、広島フェスは新しい作家を生み出し育てる場となりました。その1人が山村浩二さんと言えるでしょう。インコンペと入賞を繰り返し、2004年の第10回大会で『頭山』、2008年の第12回大会で『カフカ 田舎医者』でグランプリを受賞、『頭山』はアカデミー短編アニメーション賞にもノミネートされ、個人作家のアニメーションが社会的に注目される契機となりました。また大会組織委員を長く務めた片山雅博さんに大学で指導を受けた加藤久仁生さんは、『つみきのいえ』で第12回大会のヒロシマ賞と観客賞をW受賞し、山村浩二さんとともに日本人作家がワンツーフィニッシュを決めたのも記憶に新しいところです。海外作家では『雌牛』で第3回大会グランプリを受賞したガラス絵アニメーションのアレクサンドル・ペトロフさんが筆頭で、賞金を活用して制作を続け、今や世界の名匠となっています。
広島フェスは世界の国々や世相の変化も映し出しています。大会初期からしばらくのイギリス作品には世相を反映した暗く陰鬱な作品が多く、その中でニック・パークさんやマーク・ベイカーさんのユーモアは貴重な存在でした。旧ソ連の崩壊によって起こったロシアおよび周辺諸国の作品的混迷は近年落ち着きを見せ、ロシア初の民間経営のスタジオ・ピロット等から秀作が生まれています。独自の作家作風を持ち国際アニメフェスの開催地ザグレブを擁するクロアチア(旧ユーゴスラビア)の世情も、その時々の作品に刻まれています。前回大会では国を問わずDV等の社会問題を扱った作品が目立ちました。アニメーション教育の充実につれ、学生作品も年々優秀の度を増しています。経済状況の向上もあって2000年代から急増を見せた韓国勢からは、2006年の第11回大会ヒロシマ賞を獲得した快作『ウルフ・ダディ』が登場しました。
作品を見ると同時に世界の作家と直接触れ合えるのが国際大会最大の喜びで、ラウル・セルヴェ、ドゥ・ヴィット、レイ・ハリーハウゼンら各氏をはじめ数多くの作家が来日し、また第12回のトークショーでは杉井ギサブロー、出崎統、富野由悠季、りんたろう、高橋良輔の各監督が一同に会するという空前絶後の企画がありました。自分だけの一作を見つけるのも大会の楽しみで、私にとっては第5回大会で出会ったポヤルさんの長編『フライング・スニーカー』がそれです。いつかまた何らかの形での再会を願っています。また広島フェスはポール・グリモーさんをはじめとする、この世を去った作家たちへの追悼の場ともなっています。
そうした様々な側面を持つ広島フェスですが、もうひとつ私たちにとって欠かせないのが、2年に1度の同窓会的役割を果たしていることです。久しぶりに顔を合わせ旧交を温めるひとときは、朝9時台から夜21時過ぎまでびっしり詰まったスケジュールに駆け回る中で、息抜き以上に重要な時間です。
現在の広島フェスは、連夜のコンペを中心に、上映、展示、セミナー、ワークショップ等20近くのプログラムが重層的に構成され、それらの様子を毎日発行されるデイリー・ブルティンが伝えています。会場のアステールプラザの大中小ホールはもちろん、全館をフルに使っての運営には頭が下がりますし、見逃した作品を他のプログラムで補完できる利点もありますが、やはり涙を呑んで見送るプログラムも増加の一途で、悩ましい限りです。折角の施設機会を活用したいという意図はありがく理解できますが一考をお願いできればとも思います。
次回、第14回大会の日程も発表され、プレイベントも始まっています。長くスタッフとして作家として大会を支えてこられた片山雅博、相原信洋、川本喜八郎さんたちを欠き、未曾有の国難の中で行なわれる大会です。「愛と平和」の大会スローガンが一際心に響きます。一観客として気持ちを新たに臨めればと思っています。
その121へつづく
(11.11.18)