その31 あの頃アニメを見るためには
アニメ誌はもちろん、「シティロード」や「ぴあ」のような都市型情報誌もまだ世の中になかった頃、アニメを見るための情報源は「キネマ旬報」「映画評論」「SFマガジン」等の情報欄や、市役所区役所、図書館等の広報が頼りでした。と言っても、学園祭やファンサークルによる自主上映会が盛んになるのはもう少し後のことで、その代わりというわけではないのですが、公民館や図書館の催しとして、アニメを含む映画会が現在よりも頻繁に開かれていました。
内容は各施設が公的ライブラリーに所有しているフィルムが主で、それに視聴覚教材映画の貸出業者のフィルムや、大使館フィルムが加わることもありました。大使館フィルムは元々自国の文化の紹介のためにあるものですから、こうした使われ方が本来のものかもしれません。
各施設のライブラリーフィルムは、文化映画、教育映画、劇映画等様々で、例えば交通安全や防災防火のPRアニメ、学研や電通が製作した短編アニメ、TVアニメシリーズの中の何本か、等に加えて東映長編もありました。
そうした上映会の予定が掲載される広報等にこまめに目を通してチェックし情報交換する、そのためにもアニ同の集会は有益でした。
その頃、図書館の上映会で初めて見た作品に、フランスのジャン・フランソワ・ラギオニーの切り紙による短編アニメがありました。作品は寡作な作家の代表作のひとつ『お嬢さんとチェロ弾き』『ある日突然爆弾が』でした。場所は麻布だったと思いますが、独特のシックな色遣いの、どこかシニカルで、静かな諦念の漂うような不思議なムードを持つラギオニーの作品に、私はひと目で魅せられてしまいました。
他の国のフィルムは大使館内のライブラリーにあるのに対し、フランスは飯田橋の日仏学院に置かれていました。そのためかどうか、カナダやドイツ等に比べてフランスアニメが上映される機会は多くはなかったような気がします。
ラギオニーはそれ以来ずっと私の憧れの作家です。ジャン・フランソワ・ラギオニーという名前の詩的な音感はSF作家のレイ・ブラッドベリとどこか似た重さを持って響きます。
1992年に広島国際アニメフェスの国際選考委員として来日したラギオニーの、もの静かで知的な雰囲気と容貌はとても作品と似合っているように思えました。その時に見た、もしかしたら彼の切り紙アニメの最終作かも知れない『大西洋横断』の深い内容と、部分上映された長編『グウェン』の優雅な動きは深く心に染みました。さらにのち、2004年に東京の日仏学院で彼の講演会と新作長編が上映された際に私は上京し、終演後のロビーで思いがけずサインをして頂きました。何の用意もしていなかったので小さなメモ帳を差し出し、精一杯の英語とフランス語らしきもので『お嬢さんとチェロ弾き』以来の貴方のファンですと告げる私の心が伝わったのか、他の人にはサインだけだったラギオニーさんは私のために小さなボートのイラストを描き添えてくれました。その時の感激を私はずっと忘れないでしょう。
そういった作品との出会いを大切にしつつ、私たちの最大の目当てはやはり東映長編でした。当時は東京にも名画座が幾館もあって独自のプログラムを組んでおり、オールナイト上映もありましたが、アニメに陽が当たるのはもう少し後。まだ子供向けの娯楽映画という認識が強かった東映長編を見る機会は夏休み等に、ズタズタにカットされ、シネスコサイズの両端が切れた、CMだらけのTV放映が主でした。セルビデオもDVDもない時代です。だから図書館や市民会館での上映はとても楽しみで、都内各地や埼玉、千葉あたりまで遠征したものです。結果が褪色しまくりの傷だらけの画面、おまけに以前の上映中にフィルムが切れたところをつないだためか、ところどころカットが飛んでいたりする状態だったとしても、スクリーンでシネスコで見られるだけで幸せでした。時に映写技師が間違えてアナモフィックレンズをつけ忘れ、しばしシネスコでないタテに延びた絵を見せられたとしても。
こういった長編目当ての巡礼のような旅はその後もしばらく続いたものです。そんな場所では、後にアニメーターとして一世を風靡する金田伊功、友永和秀氏らと出会うこともままありました。この長編巡礼の中で見た、ヤマタノオロチの炎や、009の光線銃、怪ロボット・ゴーレムの都市破壊、狼の群を薙ぎ倒すホルスの勇姿。それらのエッセンスが源泉となって、彼らの才能を磨き上げていったのではないかと思うのです。
その32へ続く
(08.05.30)