その40 変化のきざし
1971年12月24日。新宿は伊勢丹交差点の派出所横に置かれたクリスマスツリーの包みが爆発、警官1名が重傷を負うという事件がありました。世に言う「クリスマスツリー爆弾事件」です。私はその時たまたま近くで映画を見ていて、爆発音が館内に鈍く響くのを聞きました。続いてパトカーと救急車のサイレンが慌ただしく響くのも。
世情が騒然としていたこの頃。映像の世界にも新たな動きが起こっていました。
劇場アニメでは、東映動画の合理化が進められ、この1971年春の『どうぶつ宝島』を最後にA作と呼ばれる80分の長編は製作されなくなりました。夏の「東映まんがまつり」で公開された『アリババと40匹の盗賊』は55分のB作で、併映作品として実写特撮の「ゴーゴー仮面ライダー」と「宇宙猿人ゴリ対スペクトルマン」が上映されました。同年からTVで始まった「仮面ライダー」から火が着いた変身ブームが劇場にまで上ってきたのです。この夏の一方の雄「東宝チャンピオンまつり」のメイン作品は「ゴジラ対ヘドラ」。私はこの時初めてゴジラ映画を見に行きませんでした。マンガ雑誌で紹介されるグラビアの、ヘドラの目玉を両手に抱えたゴジラの姿が恐ろしく、肉体損壊ものが極端に苦手な私はどうしても足が向かなかったのです。「ゴジラ対ヘドラ」自体は後に特集上映やオールナイトで見て、時代の空気を存分に孕んだ異色さと異様さを今は愛していますが。
この肉体損壊ものに対する弱さでは後に「エイリアン」第1作(1979年)で痛い目を見ています。エイリアンそのものよりも、人間と信じ切っていたアンドロイドの損壊場面が凄まじい恐怖で、冗談でなく椅子から飛び上がってしまったほどで、それまでSFのジャンルに属する作品は全部映画館に行っていた私がそれ以来足が鈍ってしまったものです。
余談はさておき、1972年の『ながぐつ三銃士』は53分、夏の『魔犬ライナー0011変身せよ!』は50分。共に「まんがまつり」の中心となったのは『仮面ライダー対ショッカー』『仮面ライダー対じごく大使』と変身ヒーローの新作だったのです。長い歴史を持つ東映長編漫画映画の冬の時代の始まりでした。そのことを憂いつつも、一方で特撮大好きな私には楽しい時期でもありました。劇場内でライダーと怪人のショーが行われることもあり、階段際に座っていた私のすぐ横を怪人エジプタスが走り抜けて行ったことなど心弾む思い出になっていたりします。
TVアニメも少しずつ様変わりし始めました。それまで『佐武と市捕物控』等、いくつかの例外はありながら、ほぼ子供向けだったTVアニメですが、1971年4月から放送開始された『決断』は太平洋戦争を背景にした、アニメドキュメンタリーを略してアニメンタリーと称する作品で、劇画タッチのリアルで重厚な画面と大人に向けた内容で視聴者を驚かせました。
1971年10月からは青年層をターゲットにした最初の『ルパン三世』が放送開始。これは日曜夜7時半からの放送だったため、裏番組の『アンデルセン物語』『ムーミン』を見ていた私は初回放送は見ていません。大方のファンと同じく再放送でその魅力に触れたくちです。
もうひとつ、アニメ史的に重要な位置を占める『海のトリトン』が1972年4月から登場しています。『トリトン』は手塚治虫さんのマンガ「青いトリトン」が原作で、手塚ファンだった私はその線から見始めたのですが、TVの『トリトン』は原作とは絵柄もストーリーも違っていました。初回こそ失望しましたが、不思議に惹きつけるものがあり見続けました。そしてあの衝撃のラストに打ち当たったのです。それまでの全てが根底から突き崩されていく善悪逆転劇。壮大な喪失感。監督・富野喜幸(当時)、プロデューサー・西崎義展両氏の鮮烈なデビューでした。
『トリトン』には後の富野作品の萌芽が詰まっています。中でも同じトリトン族である人魚の女の子ピピの描き方はそれまでのアニメにはないものでした。ピピは我がままです。アニメに我がままな女の子は多々いますが、彼女たちの我がままは可愛げとワンセットになっているのです。可愛いから何でも許せるというわけです。でもピピには生身の女が持つ嫌な部分を感じるのです。後にハルルやハマーン様、カテジナさんといった「女」を剥き出しにした恐るべきキャラクターを描き出す富野さんの面目躍如といったところでしょうか。また悲劇の女戦士ヘプタポーダはマチルダさんに代表される凛々しくも愛される女性キャラクターのはしりでしょうか。
一方ファンの間では、放送中から本編のドラマとはまた別の動きが起こっていました。緑の髪をした主人公トリトンと、彼の声を演じた少年声優、塩屋翼さんへの人気が沸騰したのです。ちょうど1971年には「シティロード」、1972年には「ぴあ」と若者向け情報誌の創刊が相次ぎ、情報自体に価値が生まれていた頃です。女子中高生を中心にした『トリトン』ファンたちは全国各地でファンクラブを結成し、会誌による意見交換やスタジオやアフレコ見学、放送局への再放送の要望等の行動を起こすようになりました。『鉄腕アトム』によって蒔かれたTVアニメの種はアニメファンという人種を生み出しつつあったのです。それはまさにブームの前夜を感じさせるものでした。こうしたファンのパワーを目の当たりにした西崎さんがやがて『宇宙戦艦ヤマト』で、そのパワーを最大限に生かそうとしたのは想像に難くありません。
その41へ続く
(08.10.03)