その41 動画の見習い
私が入会した頃のアニ同には当時のアニメ業界に働く人たちも大勢いました。当然、仕事絡みの話題も多く、ある時私も、将来何を目指しているのかと聞かれました。仕上げをやりたいのです、と答えると、現役のアニメーターの方から、アニメーターの方が面白いよ、教えてやるから動画をやってみないか、という話になりました。
その切っ掛けは私が(旧)『FILM1/24』に書いた『タイガーマスク』の最終回についての感想文でした。ボールペン原紙を使ったその原稿の最後に私は、タイガーのマスクの絵を小さく描いておいたのですが、どうやらそれが目に留まったようでした。「描けるじゃない」というわけです。私は『ジャングル大帝』が好きで昔からレオの顔を随分描いていたものですが、タイガーの虎のマスクはレオと同じ猫科なので、何となく顔全体のバランスが真似しやすかったのだと思います。もっとも今見ると当然ながら少しも上手くはない出来なのですが。
ともかく、これが縁で、私は声をかけてくれたアニ同の先輩であり、当時現役の東映動画のアニメーターだった田代和男さんの元へ通って動画を教えてもらえることになりました。と言ってもその頃はまだ職業として動画をやりたいという強い気持ちはなく、何ごとも経験という思いでした。
こうして私は初台のアパートから西武線の大泉学園駅の奥にある東映動画まで時々通うようになりました。1972年のことです。
田代さんは東映動画の社内TV班のひとつにおり、直接の上司になる作画監督は国保(くにやす)誠さんでした。国保さんもまたアニ同の先輩で、愛車の白いセリカを駆ってアニ同会員を全国総会の会場へ連れて行ってくれたりする、もの静かな中にも面倒見のいい方でした。
当時の東映動画の社内作画班は作品ごとに作画監督、原画、動画がひとつのエリアを作っていて、広い作画室にびっしりと動画机が並んだ中にいくつかの作画班がありました。
私は田代さんを通して国保さんの原画をもらい、それを動画用紙にクリーンアップすることから教わりました。さすがに本番用のものではなく、描きためてあった分だったと思いますが、作画としては作業が一番簡単な「止め」のカット、それから顔のアップで口パクや目パチと呼ばれるカットを渡されました。
今更ここで説明することもないとは思いますが、口パクはキャラクターがセリフを言うカットで、口を開いた顔の原画が1枚と、閉じた口の原画が1枚。それを清書して、口を描かない顔の動画1枚、開いた口だけの動画1枚、閉じた口だけの動画1枚に描き写し、中間の半開きの口は自分が描くのです。こうして2枚の原画から4枚の動画になります。目パチも同様。目を開けた顔と、閉じた目の2枚の原画から4枚の動画になります。
使用する鉛筆はUNI、消しゴムはMONOが最適ということや、目のフチの白目の部分等はトレスマシンでセルに転写した時に線が写らない赤鉛筆で、キャラクターの影色に塗られる部分の輪郭線は同じ理由から青鉛筆で描く等の基本的な約束事や、原画マンの書いたタイムシートの読み取り方と、動画マンとしてのその書き方も教わりました。動画は空いている机をその場でお借りしたり、家にカットを持ち帰って描いたりしました。ここで、かつて、民話社で買ったトレス台が役に立ちました。タップは以前、アニ同を通して買ってありました。人生、どこで何がどう役立つか分かりませんが、その頃はただ夢中で課題をこなすだけでした。
でも、その当時、すでに東映動画は経営合理化を巡る労使紛争の最中にありました。作画室に並んだ動画机にも人はまばらな印象で、部屋の中も静かでした。もっとも、だからこそ、素人の女学生が動画を習いに通わせてもらうなどということができたのだと思います。
当時すでに大塚康生さんや高畑勳さんたちは退社しておられましたが、まだあらゆる分野に、東映動画の歴史を初期から支えてこられた錚々たる方々が在籍しておられた頃で、その気になれば直接お目にかかることも不可能ではなかったと思います。が、不思議なもので、アニ同の集会や上映会にいると、実際のスタッフの方々と垣根がないというか、ファン意識を持って接するということがなかったような気がします。例えばアニ同の先代会長、相磯さんも東映動画の初期からのスタッフで、『ホルスの大冒険』でも動画を担当された方でしたが、私たちは相磯さんが当時の社内の労働状況について話したり会報に書かれたりする事柄に耳目を傾けこそすれ、かつて手掛けられた作品について裏話的なことを尋ねたりすることはありませんでした。それだけ状況が厳しかったということかもしれません。とにかくそういうふうに過ごしていましたので、東映動画へしばしば通うようになった私も、社内のスタッフの方々を訪ねてみようというアニメファン的な考えは浮かばなかったのです。アニ同でのその後の活動を通しても、森やすじさん、手塚治虫さんをはじめ随分と多くの方々にお目にかかり、お世話になりましたが、一度もサインをお願いするということもなく来てしまいました。制作現場を離れた今にして思えばもったいないことをしたものです。
その42へ続く
(08.10.17)