その53 アド5の頃
1973年当時のTVアニメの制作は、会社にもよりますが概ね作業は班ごとのローテーションで進行しており、4〜5週おきに1本というサイクルが主でした。放映総本数も現在ほど多くはなかった頃ですので、仕事にも余裕があり、アップ(締め切り)に追われて徹夜等ということはまずありませんでした。私のいたアド5でも午前中に会社に入って1日仕事をし、夜あまり遅くない時間に帰るというのが普通でした。そんな風にスケジュールに余裕があると、1社で2本の仕事を受け持っていても、動画の手が空いてしまうこともままあります。そんな時は地の利というのでしょうか、距離的に近い東映動画から社内班の動画が回ってくることがありました。
そんな中で忘れられないのは、当時東映動画社内班の作画監督だった奥山玲子さんから「このカットは富沢洋子さんに」と直々の指名で動画を頂いたことです。内容はヒロインのアップのカットが多かったです。
当時は動画チェッカーという職種はまだ存在せず、動画マンの描いた線がその癖そのままに、しかもトレスマシンの性能の関係で擦れ気味のやや劣化した線でセルに転写されるのでした。ならばせめてヒロインの顔はきれいで丁寧な線でとの意図から、アド5唯一の女性動画マンだった私に指名となったのでしょうが、もうひとつ考えられるのが、奥山さん自身、東映動画草創の頃からずっと会社側の女性アニメーターに対する差別と圧力と戦って来られた方だということです。叶精二さんの『日本のアニメーションを築いた人々』(若草書房刊)所載の奥山さんのインタビューに、その戦いの軌跡は明らかです。私などは、というより下請け業界一般に、アニメーターはとにかく才能第一で男女差別のない(逆に言えば保護もない)職業という認識があったのですが、やはり初期からその道を切り拓いてこられた先達にはそれなりの覚悟と戦いがあったのでした。だから奥山さんは同じ女性の私に特別のチャンスを与えてくれたのではないか、とこれは後になってから思ったことなのですが。私はアド5には長くはいませんでしたから、東映動画時代の奥山さんとのご縁は短いものでしたが、後に、日本アニメーションの『母をたずねて三千里』で、再び奥山さんと仕事をご一緒することになります。またその頃はアニドウの機関誌『FILM1/24』が活字化していて私が編集長として携わっており、『三千里』特集号では小田部羊一・奥山玲子ご夫妻に直接インタビューもしています。私はいつかアド5時代の話をしてお礼を言いたいと思い続けていたのですが、それも叶わぬまま奥山さんは突然この世から消えてしまわれました。言葉で伝えることはできなかったけれど、自分のアニメーター人生の始めにこのような出会いがあったことを私は幸せに思うのです。
他にアド5のことで今も思い出すのは、アニメーターで鯨井実さんという方がいらっしゃったことです。第1期の『魔法使いサリー』や『ひみつのアッコちゃん』の作画にその名が出ていますから、アド5以前からアニメーターとしてのキャリアを積んでおられたようです。一方、円谷プロの『ウルトラマンレオ』や『ウルトラマンタロウ』の合成作画にも鯨井実という名があります。この鯨井実さんは同一人物なのか、私がアド5でご一緒した鯨井実さんであるのか、残念なことに全く会話を交わしたことがないので確信は持てないのですが、両業界に詳しい方におうかがいすると、同一人物ではないかとのことでした。現在は造型方面にも進出しておられるようです。アド5の頃はずっと机について仕事をするばかりで、皆で社外で一杯等という機会もなく、何の話もしたことがなかったのが今さらながら悔やまれます。合成作画は特撮好きの私にとってとても興味ある分野なのですから。
話は変わりますが、スケジュールに余裕があるということは仕事量も多くはないということです。給料は出来高制で、動画1枚120円内外でしたから、月にして10万円には大分届かない額でした。家賃は安く食住接近で交通費も不要、生活費も多くは要りませんでしたから不自由はなかったのですが、でも時間はありますから、仕事に慣れてくると社外の仕事のアルバイトをするようになりました。同じ大泉学園の歩いてすぐのところに、東映動画を退社されたベテラン、古沢日出夫さんの作られた作画プロ、古沢動画工房(後の動画工房)がありました。そこに名古屋のアニメーションサークルTAC出身の小林正義さんが上京後、動画マンとして勤めていました。小林さんと私は年も近く、全国総会等でも顔なじみで気が合っていましたので、どちらから声をかけたでもなく、そこで動画のアルバイトをさせてもらうことになりました。アド5の仕事の終わる夜の時間です。仕事は東京ムービーの『侍ジャイアンツ』でした。カットをもらって家で描くことも、空いている机をお借りして社内で仕事させてもらうこともありました。ここもアド5同様、そう遅くまで仕事をしている人はおらず、古沢さんのお姿を見ることもありませんでした。小林さんと2人で並んでお喋りしながら動画を描いているうちに夜が更け、そのままそこで仮眠させてもらったことすらあります。でき上がった動画をチェックしてくださるのは、後に動画工房の社長となる石黒育さんでした。後に演出に転進される石黒さんのチェックもまた丁寧で、自分のところの社員でもない私にも的確なアドバイスをしてくださいました。『侍ジャイアンツ』の登場人物は野球のユニフォームを着ていますから、袖や肩のラインに大きなシワが入るのですが、そのシワをいかに感じを出すか、質感や人物の身体の動きを頭に思い浮かべながら描くように等と理論的に教わり、ありがたく思ったものです。
アルバイトの話になりましたが、これは決して生活が苦しかったからではなく、違う仕事をするのも勉強のひとつだったからでもあります。現在はどうか分かりませんが、当時はアニメーターといっても極貧と決まった訳ではなく、極端に手の遅い人はともかく、普通に真面目に仕事をしていれば貯金もでき、家や車を買うことも、結婚して子供を持つことも充分にできるものだったのです。
その54へ続く
(09.04.03)