アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その58 続・オープロでの日々

 今回もオープロの日々を思い出すままに書いてみようと思います。オープロには8年余りいましたので、その間の事柄がごちゃ混ぜになっていますが。
 前回、就業時間の事を書きましたが、ほとんどが自由な自分時間で出退社している中で、結婚している女性社員だけは特に忙しい日を除いて午後5時の退社となっていました。夜型の多いこの業界では、これからが脂の乗ってくる時間だったりもするのですが、それはともかく、このあたりの自由度が高いのがアニメ界の居心地のよさにもつながっています。もちろん給料は1枚いくらの出来高制ですから、それを納得の上でのことではありますが。
 そういえば最近読んだ資料によると、アニメーターの多くは社員といっても名ばかりで、実体は会社の机を借りているだけのフリーランスの集団に過ぎない旨の記述がありました。そう言われてみれば、私も移籍に際して村田社長から就業時間や単価の説明は受けましたが、果たして正式な書面での雇用契約を結んだものだったかどうか、記憶が曖昧です。ちなみに私より数年後に入った新人女性さんは、研修期間中は固定給(最低保証給)で、実家から通えることが採用条件だったそうです。保険は個人で国民健康保険、年金も国民年金に加入していました。アニメーターに限らず自由業は体が資本で、働けなくなったら即無収入になってしまいます。そういう意味では、固定給も保証給も厚生年金もないこの業界は、一部を除き皆フリーの集団であるとも言えるでしょう。『鉄腕アトム』でTVアニメが本格的に始まってからすでに40年余り経ち、アニメーターも高齢化が進み、還暦を越えてなお現役第一線で活躍する先輩方の話もしばしば耳にします。アニメがこれだけ産業として大きくなり、国を挙げての有望コンテンツと見なされる今、せめて安寧な老後を迎えられるだけの保証を、業界全体として考える、あるいは国家として考えていただく時期にきていると思います。かつて、日本アニメーションを退社され不遇の時期にあった宮崎駿さんがしみじみと、フリーというのは選業の自由ではなく失業の自由なんですと言われたことが思い起こされます。
 話がずれてしまいましたが、オープロというのは正社員であろうとなかろうと、とにかく結束の固い会社でした。それは前回も書いたように幹部連の人柄と、温かい家庭的な雰囲気がそうさせたものでしょう。机の余裕さえあれば基本的に来る者も去る者も拒まずの会社で出入りは多かったですが、オープロでひと時を過ごした者たちは皆、一朝ことあらばの思いを抱いています。このことは村田氏のまさかの急逝に際して高畑勲さんが、こんな会社は他にはないと驚きと感銘を込めて語られていました。「私たちはみんなオープロの子供」、これも葬儀の際の女性OBの言葉です。

 オープロがどれだけ家庭的だったかというと、変な例ですが、社内の掃除を村田氏が率先してやっていたことでもうかがわれます。後に改善されたようですが、社長自らがトイレ掃除をしているのを、一社員たちは「あ、ご苦労様です」の一言で済ませていたのですから。
 でも、お茶汲みはさすがに女性の出番でした。ほとんどの人が机にマイカップを持っていて、時分時になるとお盆でそれを集めて回り、日本茶を煎れて配ります。これは実はサービスだけでなく、よい気分転換になるのです。机に座ってひたすらに鉛筆を動かすだけの仕事ですから、こうして体を動かすのはとても有効なのでした。
 食事は各自の自由で、大体が外へ食べに行きました。時間もばらばらです。出かけついでに買い物をしたり、書店に寄ったり、中には散髪や映画を見てくる人もいました。荻窪はその点、とても便利な場所で、近くの商店街をはじめ、駅周辺にいくらも店がありましたし、映画館までありました。当時日本に進出してきたマクドナルドのハンバーガーを私が初めて食べたのも荻窪店でした。今はその商店街もすっかり様相が変わってしまい、寂しい限りです。
 普段の日はそんな風に自由な食事ですが、仕事が混んでくるとそんな悠長なことはしていられません。出前です。注文先は近くの日本そば屋の長寿庵と中華料理屋さんの2軒が定番でした。出前といえば、押井守さんの脚本の持ちネタになっていますが、大量の変則的注文に翻弄される主人公、大量の出前に錯乱する中華料理店主、といった具合で、このネタを見るたびにかつての日々を思い出したりします。『機動警察パトレイバー』の時は、上海亭の店主が宮崎駿さんそっくりのキャラクターに描かれていて可笑しかったものです。この出前ネタは最近も実写+特撮ドラマ「ケータイ捜査官7」でも再現されていて私は大受けでしたが、真面目な視聴者には顰蹙をかっていたようです。
 外食にはやはり食後のコーヒーがつきもの。教会通りの角にあった喫茶店「608(ロクマルハチ)」にはいつも誰かしらがいました。現在のようなカフェチェーンは存在しない時代で、カフェではなくあくまでも喫茶店です。コボタン時代もそうでしたが、当時は1杯のコーヒーを頼むと、飲み終えてもそのままずっと店に居座っていたのです。喫茶店には新聞や週刊誌が豊富に置いてありましたので、毎日通っては全部のマンガ誌を制覇したものです。
 まだ年若かった頃は行き先は喫茶店が主で、同じ教会通りの居酒屋、両関が交歓の場になるのはもう少し後、友永和秀さんが移籍してきてからのことになりますね。

 仕事中は今のようにイヤホンやヘッドホンをつけて個人で聴くようなことはなく、動画机の上に置かれた1台のラジオを部屋の皆で楽しんでいました。私は才田さんと同じ部屋にいましたので、自然と才田さんが選局係になります。和田誠さんと結婚する前の平野レミさんが「男が出るか♪女が出るか♪」と素っ頓狂な声を張り上げていた昼の番組や、夕方の「こども電話相談室」等をよく聞いていました。適当な番組がない時は、才田さんの趣味の落語のカセットテープをよく聞かせてもらいました。大抵の古典落語と落語家はこの時期に覚えたものです。桂枝雀が売り出し、森卓也さんが盛んに落語に関する文章を書き出すより前で、この素養のおかげで森さんの文を格別に楽しめました。じっと座っているという職業柄か落語愛好家は他にも多く、カセットの貸し借りも盛んでした。
 もちろんTVも見ました。仕事関連の番組は当然として、NHKの自然観察の番組等は参考にもなるので欠かさず見ました。男性陣はボクシングのタイトルマッチ等があるとぞろぞろと集まって見ていました。アントニオ猪木対モハメド・アリの異種格闘技戦の日などは朝から皆異様なテンションになっていたものですし、三菱銀行の立て籠り事件が生中継された時などはTVもつけっ放し。ラジオで何か進展が伝えられた途端、皆でわっとTVの前に集まります。ケータイ、ワンセグで個人の掌の上で全てが分かってしまうのでなく、皆で何かを共有し、一緒に熱くなれた時代でした。

その59へ続く

(09.06.12)