その63 『ハイジ』の頃
35年も前であっても自分が担当した動画のカットはまだ覚えているもので、画面を見ていると思い当たります。同時に同じ部屋で諸先輩が描かれていた動画も覚えています。例えば第3話のラストで、ハイジがエプロンの中でしおれてしまった花を後悔と共に崖下へそっと撒くシーンの、くるくると回りながら落ちていったたくさんの花はオープロの田中さんが苦心しながら動画を描いていたこと等を、その時の部屋の光景と一緒によく覚えています。
『ハイジ』は、動画の私たちもハイジと一緒になって、次はどうなるのだろう、何が見えるのだろうと楽しみにしながら仕事をしていました。作業的にもまだ多少の余裕があり、話の内容も毎回新しい発見の喜びに満ちていた第1クールがやはり印象に残っています。第4話の嵐の場面では、雲間を走る稲妻のカットをアドファイブでの恩師、岡田敏靖さんが原画を手がけ、その上手さが本社内でも評判だったという話を耳にした時は、我がことのように嬉しかったものです。
しかし、毎週放送というTVアニメの形式は誰もが思っていた以上に厳しく、放送用ストックは底をつき、作ってはすぐに放送の自転車操業体制に入らざるを得ませんでした。通常数週間はかかる1本あたりの作画スケジュールは10日ほどしか取れず、例えば土曜日に原画を打ち合わせ、翌週金曜に原画アップ、併行して進められる動画はその数日後がアップという具合です。動画と同時に仕上げを進め、撮影、編集で、いつもフィルムの完成は放映ぎりぎりでした。原画打ち合わせもシナリオが遅れ、絵コンテが遅れ、次第に土曜から月曜へ、月曜の午前中から午後へとじわじわと遅れて行き、もうこのまま行ったら放映に穴が空くという切羽詰まったところで、ようやく全52話の制作が終わったのでした。
余談ですが、その直前の第50話の打ち合わせ当日に高畑さんが行方不明になり、全員真っ青になるという事件も起きました。実はぎりぎりまでコンテが決まらず、出社の通勤時間を惜しんで自宅にこもって仕事をするうちに時が経ってしまったのだそうです。ズイヨーのスタジオは東京の西の外れ、聖蹟桜ヶ丘にあったので、こんなハプニングもあり得たのでした。
『ハイジ』の演出は全話高畑勲さんで、これは監督と同義です。その下には複数のコンテマンがいて、中には富野喜幸さん(当時)の名も見られます。次回作『母をたずねて三千里』の頃になると、コンテマンによる絵コンテは一種の叩き台の役割を果たすだけで、実質はほとんど高畑さんが手を入れていましたが、『ハイジ』の頃はまだそれぞれのコンテマンの絵コンテを元に高畑さんが大小の修正や変更を加えた上で使われている割合が多かったように思います。
高畑さんが手を入れるのは、カット割りによる感情の流れの見せ方や、人物の対話シーンが主だったような気がします。『ハイジ』は人物が会話する時の姿勢がとてもナチュラルで、それをきちんと三脚に乗ったカメラで撮っているかのような画面作りになっています。
一概に言うことはできませんが、それまでのアニメの会話シーンは人物が棒立ちだったり、セリフを言う時に右手のひらを上に向けるという、日常ではまずやらない一種の記号的な身振りをしたりという場面が多く見られたものでした。これは動きではあっても芝居とは言えません。またカメラの切り返しが上手くいってなかったり、単純にセリフを言う人物を映すだけという場合も見られました。高畑さんは理論の人ですから、切り返し等のカメラワークや芝居のつけ方にも納得できるものを求めるのです。
変更箇所は高畑さんの絵になっていましたから、すぐに分かります。最近は絵コンテがそのまま書籍化されて出版されるような時代ですから、絵心のある演出家が多かったり、あるいは作監クラスが清書していたりするようですが、高畑さんは絵を描く人ではありませんし、最初期こそ宮崎さんが清書していたりしましたが、すでにそんな時間もなくなっていましたから、高畑さんの絵がそのままコンテになっているのです。それはごく単純な丸チョン式のものなのですが、不思議に雰囲気の出た、そしてパースが合っている絵でした。そうして要求される芝居はアニメーターにとっては日常的な観察力と表現力が必要な難しいものでした。何人かの原画マンはスケジュールの厳しさと演出上の高度な要求に応えられずに『ハイジ』班を抜けて行きました。
舞台がフランクフルトに移ると登場人物も増え、ハイジがアルムの山を駆け巡っていた頃とは違って細かい日常芝居がさらに多くなり、アニメーターにとってつらい仕事になってきました。丸顔で天真爛漫なハイジと違って、顔の輪郭や表情にも微妙なニュアンスを持つ小田部さんのクララを描きこなすのは、ベテランでも難しそうに見えました。
動画にも原画とはまた別の苦労があり、私が一番苦労したのは、お屋敷の模様彫りのついた大きなドアの開閉のカットでした。ドアの厚みと、ドアの表面についている四角い飾り彫りの厚みをきちんと守って中割りを、それも大抵は定規を使わずフリーハンドで描くのは大変でした。今ではこうしたカットはほとんどCG処理になっているようですが。そんな中で皆が楽しんで描いていたのは、時にオーバーアクションが許されるロッテンマイヤーさんでした。アニメーターというのは大体が対象を自由に動かしたいものなのですから。そして動画にとってもなぜかロッテンマイヤーさんはとても描き易いキャラクターでした。
作画をしていると多かれ少なかれ作品の中に入り込んでしまうもので、ハイジがフランクフルトで苦しんでいる頃は描いている側もちょっとテンションが下がったりします。宮崎さんがペーターが十字軍(?)に入ってハイジを取り戻しにフランクフルトへなだれ込んで来るという落書きを描いてうさを晴らしていたのもこの時期だったようです。
その64へ続く
(09.08.21)