アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その64 続・ハイジの頃

 制作の中盤からは原画も動画も毎週毎週、アップ(締め切り)の時には徹夜に近い作業が普通になってきました。我々下請けプロも前例のない作業で大変でしたが、もっと大変なのはメインスタッフだったでしょう。我々もできる限りの仕事をしていましたが、それは互いに助け合い仕事を分け合いながらでした。でも、メインスタッフに代わりの人材などいないのですから。ストーリーも長編の原作があるとはいえ、細かい毎回のエピソードはオリジナルといってよく、無から有を生むような作業だったに違いありません。よくやり通したと今となっては思います。そんな私たち皆を支えていたのは、よい作品を作っているという自負でした。そして幸いなことに視聴率的な好評という裏打ちがあったのです。実際、高畑さんを中心とするチームは、かつての東映長編『ホルスの大冒険』やテコ入れで参加した『(旧)ルパン三世』後半等もそうでしたが、公開や本放映時の結果は惨敗で、本当の評価は後になってからついてくるもので、放送期間中に高評価を得たのは、この『ハイジ』が初めてだったのです。

 スタッフの間をつなぐのは制作進行さんたちで、上がりカットの回収のために、のべつ高速で車を飛ばしてあちこちのプロダクションや外注さんの間を走り回っていました。誰にとってもこんなスケジュールの仕事は前代未聞で、それが1年間続き、それどころか名作劇場としてシリーズ化されてその後何年も続いたのですから、考えるだけで空恐ろしくなります。『ハイジ』は日本のアニメに新しい歴史を刻みましたが、同時にまともな人間業ではない仕事のやり方という新しくも恐ろしい扉をも開いてしまったのでした。
 作画のアップの日は当然のごとく徹夜になります。オープロの部屋では眠気覚ましを兼ねて深夜ラジオをよく聴いていました。それは大抵が深夜の国道を走る長距離トラックのドライバー向けの番組で、現在はさすがに聴くこともなくなりましたが、というよりそうした番組がまだ続いているのかさえ知らないのですが、それでもパッパパッ♪というテーマソングを頭に思い浮かべるとたちまち当時のオープロの部屋の様子が鮮明に甦ってきます。
 原画と私たち動画のアップは微妙にずれていましたが、まれに『ハイジ』班全体が一緒に徹夜という日もありました。そんな時は仕事明けに社長の村田氏が皆を小さな夜通しやっている店に連れて行っておごってくれることがあり、実にありがたくお相伴に預かったものでした。まだ24時間営業のレストランチェーンや明け方までやっている居酒屋チェーン等ない頃の話です。
 私たち作画班がアップしても次の作業はまだこれからです。スケジュールのしわ寄せは絵コンテ→原画→動画→仕上げと、後の工程になるほど厳しく、仕上げのチーフである仕上検査の方は女性ながら家にも帰れない日々が続き、椅子で短い仮眠をとる生活が続いたと聞きます。当時はまだ色彩設計、色指定、仕上げチェックという職種の分類も未分化な頃で、どうしても責任が集中してしまうきらいがあったようなのです。それでも仕上げの最後の追い込みに差しかかると社内班の手の空いている人間は総出で、それこそ仕上げとは全く関係のないプロデューサーやデスクワークの人たちまでがセルの色塗りを手伝っていたそうです。現在は仕上げはコンピュータが導入されて省力化が図られていますが、当時は1枚1枚を人の手で絵の具を塗っていかねばならず、それが乾くまでの時間さえ惜しい状況だったのでした。
 こうした、ひとつのことを仕上げるための常識外れなまでの一体感は、はっきりと目には見えないまでも『ハイジ』全体を包む暖かさとなって作品に反映していたとも言えるのではないでしょうか。

 前回、最終回直前のアクシデントについて書きましたが、『ハイジ』の制作中に起こったもうひとつの大事件があります。それは1973年暮れに日本を襲ったオイルショックの余波による紙不足です。紙不足の象徴のように言われていたトイレットペーパーは、ちり紙を代用にすれば何とか事足りますが、動画用紙はどうにもならなかったらしく、通常の白い上質紙でなく、紫がかった汚い色つきの紙しか入らないようになりました。これは紙質が悪くザラザラしていて、柔らかいユニの2B鉛筆の芯はすぐに擦り減ってしまうし、中割りをしようとして動画用紙を3枚重ねると動画机の下からの照明くらいでは下の絵が透けて見えなくて随分難儀したものです。幸いなことにこれはしばらくの辛抱ですみ、また白い紙が復活しましたが、この事態が長いこと続いていたらスケジュールどころか放映やスタッフの体調にも影響が出たかも知れません。それほどの大事件でした。

 私は作品として『ハイジ』を高く評価する1人です。『ハイジ』が作り出されたのは日本の高度経済成長にひずみが出始め、日本人が今の生活に疑問を抱き始めた頃でした。そんな中で、本当に人間らしい生活とは何かを問いかけ、開発の名の下に踏みにじっていた大自然の美しさ、素晴らしさに目を開かせ、人間の持っている可能性を肯定する『ハイジ』の物語は、時代をつかむと同時に、時を超えて永遠不滅のものだと信じています。その後の高畑さんの作品歴においても、これだけストレートにそれらを謳い上げた作品は類を見ません。
 でも、それでも、ハイジがフランクフルトに行ってからの話はとてもつらい展開が多く、また高畑さんの演出が実に上手いので余計にハイジが可哀想で、とても見ていられない場合があります。ことにハイジがクララのおばあさまの秘密の部屋で山の絵を見つけて涙する話などはもう耐えられません。そういうわけで、我が家にはいまだに『ハイジ』のDVD-BOXすらなかったりするのです。

 『ハイジ』についてはまだまだ書き足りないことがあります。美術の井岡さんの素晴らしさ、渡辺岳夫さんの音楽の豊かさについても書いていません。でも、この辺でひとまず筆を休め、次に進みたいと思います。

その65へ続く

(09.09.04)