その68 続・私の「1/18」
前回の続きです。1974年3月12日発行の、上映会パンフを兼ねた臨時増刊号を挟んだアニドウの機関紙「FILM1/18」第15号(3月17日発行)では映産労の『ホルス』上映会後の高畑勳さんの講演のミニレポートを掲載しています。当時、高畑さんが人前で『ホルス』について語るのは非常に珍しく、大変に聞き応えのあるものでした。
第16号(3月31日)では『フランダースの犬』第15話に小田部・宮崎両氏が原画で参加のニュースと、カルピスソノシートプレゼントのCMアニメを森やすじさんが手がけているニュース。このCMは森さんがコンテ、演出、進行までを、原画を村田耕一さん、動画をオープロで手がけました。アニメ誌も何もなかった頃としてはこの手の情報は貴重だったのではないかと思います。
第17号(4月14日)では6月に迫った全国縦断自主作品上映会PAFへの意気込みを。第18号(4月30日)では4月23日の上映会「見よ!日本まんぐわえいぐわの伝統を!」で会場費が未納だったために当日の上映会直前に会場使用を断られ、並木会長の直談判でなんとか開会できたという顛末を報告。とにかくお金も時間の余裕もない中での運営でしたからこうしたアクシデントはつきもので、こんなイザという時に弁舌巧みで迫力のある並木さんの口調は見事に役立ち、会長としての面目を果たしたのでした。また、この号から「ごしっぷ」というコーナーが登場し、アニメ界のウワサ話を面白おかしく伝えています。これは「1/24」にも受け継がれたコーナーですが、この号では『ゲッターロボ』の作画スタッフの南波一(なんば・はじめ?)は実はスタジオNo.1をもじった架空の名前であることが書かれています。スタッフタイトルには人数枠があり、実数が足りないための策ですが、資料至上主義ではこういう点でも危ういことがあるのです。
第19号(5月12日)はSF怪奇映画等の3日連続8ミリ特集上映会大成功のレポート。杉本さんのコレクションにはもちろんアニメだけではなく様々なフィルムがあり、いわゆるジャンル映画好きの多いアニドウでも、アニメに限らず様々な上映会を企画していたのでした。怪作「ジャイアント・クロー」をはじめとするこれらのフィルムは全国総会でも上映されましたから、ご記憶の方も多いかと思います。またこの頃から上映会に定期的に来られない人向けに1ヶ月送料込み50円で「1/18」の定期購読者を募集しています。これがやがて「FILM1/24」の定期購読者へとつながっていくシステムの始まりです。
第20号(5月30日)では、月岡貞夫、相原信洋、アマチュアアニメーション協会等、6月に集中した上映会のお知らせと、映産労の機関誌「アニメレポート」創刊のニュース。「アニメレポート」は「1/18」とはもちろん違う真面目な内容で、体裁もページ仕立ての立派なものでした。「アニメレポート」は今もネットに上がっていて読むことができます。ごしっぷコーナーではタツノコプロで動画机をカラフルに塗り替えている話題を。これはサンリオの白い動画机に感動した吉田社長の発案で、演出は白、アニメーターは緑、彩色はオレンジに塗り分けた机を、緑のカーペットを敷き詰めた部屋に置いてあるそうで、さながら草原のムードだとか。いつまで続いたかは定かではありませんが。
第21号(6月16日)は盛り沢山で、まずは第1回PAF成功のニュース。そしてPAF開催を機に読売新聞にアニドウが「ロマンの世界ここに」のタイトルで写真入り4段組の記事で大きく紹介され、それがきっかけとなってNHK「スタジオ102」に並木さん、甲谷さんの2人が、この番組のために急遽作った15秒のタイトルアニメ「ぼくらが創ったアニメの世界」を持って出演、さらにNETテレビのニュース番組で、あんばらやでの自主制作風景(の再現)とPAFの会場風景が5分間、並木会長と、半田元会長の発言つきで流れたことを載せています。この時のニュースフィルムはNETからもらい受けて今もアニドウに存在しており、その中にはセルの色塗りをしている若き日の私の姿も写っています。
そしてもうひとつ、「並木会長パリに飛ぶ」のタイトルで、並木さんがフランスのアヌシーアニメフェスティバル初参加のために日本を発った速報。この並木さんのアヌシー行きがアニドウにさらなる大転換をもたらすのですが、それはまた後の話。
ミニニュースではズイヨーから日本アニメーションへの社名変更についてと、森やすじさん演出によるカルピスのパトラッシュぬいぐるみプレゼントアニメのお知らせに、一時プラモ業界へ転身していた大塚康生さんのアニメ界復帰のニュース。アニドウもアニメ界も活気あふれる様子が紙面を通して伝わってきます。
第22号(6月30日)からは、帰国した並木さんによるアヌシーレポート「ムッシュゥ・ヤカンのふらんす日記」が連載開始。並木さんの原稿を私が版下に清書し、カットをつけて掲載しています。第1回では、今や世界を股にかけて活躍する並木さんが初渡航でその日の宿さえなくアヌシー到着前に途方に暮れる様子が綴られています。なお、なぜ「ムッシュゥ・ヤカン」なのかというと、以前情報誌に載った上映会の連絡先に「電話×××夜間並木」とあったのを誤読して「ヤカンナミキさんですか?」という電話をしてきた人がいて一同大爆笑、並木さん自らヤカン並木と名乗っていた時期がちょうどこの頃だったからです。こんなところからも当時のアニドウの和気あいあいな雰囲気が伝わるのではないでしょうか。
第23号(7月21日)はディズニープロの新作『ロビン・フッド』についてと、東映まんがまつり上映の『家なき子』がかつての長編『ちびっ子レミと名犬カピ』の短縮版であることから今後を危惧する記事。まんがまつりで同時上映の『グレートマジンガー対ゲッターロボG』にはタイガープロからオープロへ移籍の友永和秀さんも参加とあり、スタッフの動向も知ることができます。「ふらんす日記」は順調に第2回を掲載。この時のアヌシーでは古川タクさんの『驚き盤』が特別審査員賞を受賞しています。
第24号(8月4日)では9月の全国総会開催のお知らせと、当時高校生で最年少会員だった篠幸裕くんが足で調べた夏休み児童館スケジュールを掲載。これに当時まだ都内に多く存在していた名画座やTV放映を併せると毎日のように何らかのアニメが見られる状況だったことが分かります。
第25号(8月18日)では、今月の上映会であるフライシャー特集のお知らせと、『ハイジ』『日本昔ばなし』等の8ミリ、ブルガリアの16ミリ短編アニメの発売のニュース。
私の「1/18」としては最後の号になった第26号(9月7日)では、いよいよ間近に迫った全国総会静岡大会についての記事で、会長よりの注意の中に「他のサークルの人にフジヤマ・バック・ブリーカーその他の技を禁じます」等とあり、いつも面白おかしいことを目指して過ごしていた当時の私たちがうかがえます。この頃のアニドウは、総会のたびに有志の8ミリでドキュメントフィルムを撮影しており、開催地に合わせて「風雲急!××街道」と銘打ったシリーズになっています。その映像は現存しており、その中で永遠に変わらない私たち皆の若々しく仲睦まじい姿は、見るたびごとに喜びと一抹の感慨を呼び起こすのです。
1974年9月に「1/18」を受け継いでから1975年9月までの1年間で、増刊を含めると27部をほぼ独力で編集発行していたことになります。多い時には1ヶ月に4号出している時もあります。もちろん仕事を、当初は『ハイジ』、後に『フランダースの犬』の動画をきっちりと、人一倍こなしながらです。早い時には前日の出来事を綴った記事もあり、よくぞできたものだと我ながら感心してしまいます。若さだけではカバーし切れるものではなく、あふれる情熱が後押ししてくれたのでしょう。ネット主体の現在では到底再現不可能な、かけがえのない日々がそこにはあります。
と今まで書いて来ましたが、実は現在の私自身は「1/18」の実物を持ってはいません。そのあたりの事情については後に記すことになるかと思いますが、現在手元にある「1/18」は並木さん、小松沢甫さん、渡辺泰さん、他複数の友人知人に声をかけてコピーしてもらったものです。これについて協力してくださった方々には多大な感謝をしています。読むにはコピーでも差し支えはないのですが、やはりあのワラ半紙の触り心地と色合いは何とも言えず、その後私が個人で自主発行した同人誌たちに柔らかい手触りの薄い色のついた紙を好んで使用するのは、おそらくこの「1/18」が原点になっているのだと思います。これをお読みになった方でもし手持ちを譲ってもいいと思われた方はご一報ください。一生感謝します。どうぞよろしくお願いいたします。
その69へ続く
(09.10.30)