アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その76 1975年のアニドウ

 1975年のアニドウは目覚ましく活動の輪を広げつつあった時期でした。並木さんも「あんばらや」での共同生活が好影響となったのでしょう、すっかり会長として落ち着き、次々と上映会の新機軸を打ち出して新たなアニドウの時代を進めていました。その様子に私も心から信頼を抱き、その片腕として最大の協力を惜しみませんでした。
 中でも大きかったのは4月、5月、7月と3回を使って上映された「見よ、日本まんぐわえいぐわの伝統を!」のプログラムです。杉本さんのフィルム・コレクションの全面協力を得て、それまで様々な機会にバラバラに上映されていた草創期の日本の古典アニメ、いえ、漫画映画と書いた方がいいでしょう作品群を体系的に見ることのできる有意義なプログラムでした。「まんぐわえいぐわ」という表記は並木さんの好みですが、公開当時は実際にこう書かれてもいたのです。
 アニドウとしての一押しは何といっても『くもとちゅうりっぷ』をはじめとする政岡憲三さんの優れた作品たちでしたが、村田安司さん、大石郁雄さんをはじめ初期の作家は皆個性的で、今見るからこそ楽しめる部分も多々あります。中でも当時アニドウ内で受けていたのは『シンテリヤ嬢の花婿』という短編です。これは脚本=瓜生武、作画=森川信英、協力に当時の厚生省があたっていて、狂犬病予防のPRアニメになっています。擬人化されたテリヤ犬のお嬢さんシンテリヤ(声は若き日の瀬能礼子)のハートを射止めた相手の名は隅田藤六(すみだとうろく)。シンテリヤのつぶやく「すみだとうろく……とうろくすみだ……登録済みだ」。つまり飼い犬の登録をして狂犬病の予防注射をしましょうという爆笑もののオチなのです。
 なお杉本さんのコレクションは、私がアニ同に入会直後の1971年に火災に遭い、貴重なフィルムの数々を消失、その中には先年新たに発見され日本最古のアニメーションとして話題を呼んだ『なまくら刀』も含まれていました。この上映会は、それらを失いながらも不屈の情熱で、文字どおり炎の中から不死鳥の如く復活して来た杉本さんの労を讃える催しでもあったのでした。

 6月には全国から自主作品を募って行われたPAF(パフ=プライベート・アニメーション・フェスティバル)の記念すべき第1回が各地のサークルの協力によって開催に漕ぎ着けています。PAFについてはまた後述することにします。
 8月の月例上映会は「漫画王フライシャーの復活」。この頃、私たちはフライシャー兄弟という作家を新たに「発見」しつつありました。杉本さんの元に、あるいは各地のサークルのコレクターの元に、フライシャーのまだ見ぬ作品が現れ、それを見るたびにフライシャーという作家の独自性と偉大さに対する認識が深まって行きました。ここからの数年間は私たちにとってフライシャーを発見する道程でもあったのです。
 現在ジブリ美術館ライブラリーとしてフライシャー兄弟の最高傑作『バッタ君町に行く』が日本各地で巡回上映中です。春にはDVDとしても発売されるようですが、できればクライマックスの大モブシーンは劇場の大きなスクリーンで観ていただきたいと切に願います。35ミリのニュープリントで『バッタ君』に出会うという千載一遇のチャンスをどうか逃さないでいただきたいのです。細部まで驚きと発見が詰まったフィルムは多少の無理をしても観る価値は絶対にあるのですから。

 そしてもうひとつ重要なのが10月上映会の「謎の短編UPA」です。ここでは静岡のアニメサークルしあにむの協力を得て8ミリ版9本を上映しました。この上映会については「FILM1/18」について記した連載第73回で少し触れていますが、UPA(ユーピーエー)というのはユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカの略称です。アニメ史においては欠かすことのできない存在ですが、日本ではその真価を示す作品はこれまで全く公開されず、海外の文献でその名とスチルを知るのみの「謎」の存在だったのです。前月の全国総会で本邦初公開となったその作品群は実に鮮烈なもので、早速、月例上映会の企画となったのでした。
 UPAはディズニープロから離脱したスティーブン・ボサストゥとジョン・ハブリーらが興した会社で、そのスタイルはディズニー流の自然主義に反旗を翻す、シンプルでグラフィカルに様式化されたキャラクターを必要かつ充分なだけの制限(リミット)されたアニメートで表現するアーティスティックなものです。テーマも風刺等を主とした大人のアニメーションでした。リミテッド・アニメーションと呼称されるそれは、ディズニーに対するカウンターカルチャーでもあり、アニメーションの革命でもありました。代表作の『ジェラルド・マクボイン・ボイン』はアカデミー賞を受けており、また洗練された画面とオペレッタによる裁判劇という大人な内容の『ルーティ・トゥート・トゥート』は私の大好きな作品でもあります。それら1950年代の作品を私たちは四半世紀遅れでやっと目にすることができたのです。リミテッドといっても、必要なところにはしっかりと枚数をかけた、滑らかな動きになっているのが分かります。彼らのスタイルと昨年夏に現代美術館で公開されたメアリー・ブレアのスタイルには相通じるものも感じられ、このあたりは今後の研究成果を待ちたいと思います。
 UPAの提唱したリミテッド・アニメーションは芸術運動でしたが、後続の会社にとってはリミテッドのスタイルはその主張よりも作画枚数の削減による費用節約効果の方が注目される結果となってしまい、その精神は失われて行きました。日本ではリミテッド・アニメーションの意味が誤用される形で『鉄腕アトム』以降のTVアニメに制作のスピードアップと作画枚数削減の手法として伝わり今日に至ります。が、その間に日本式リミテッドの手法は独自の進化を遂げ、アニメーションならぬ「アニメ」として確立し、現在では海外でも日本製の作品は「アニメ」で通用するほど定着しているのですから、歴史は面白いものです。しかし、やはり本来のリミテッド・アニメーションの意味と意義とは何かが正しく認識されることを願うものです。

 他に1975年の出来事として大きいのは並木さんのアヌシー行きです。川本喜八郎さんのお誘いで並木さんは初めて渡欧、世界最高の国際アニメーション・フェスティバルを体験し、大きな刺激を受けて帰ってきました。私はすっかり忘れていたのですが、並木さんが持って発った現金8万円は、私が手渡したお金だったそうです。5万円でも10万円でもなく、8万円という半端な数字にリアリティがあります。並木さんに私たちの代表として見聞を広めてもらいたい一心で手持ちのほとんどを割いたのでしょう。一介の動画マンにとって8万円という額がどれほどの重みを持っていたかと思うと、当時の自分の一途な健気さに何とも言えぬ思いがこみ上げてきます。この並木さんのアヌシー行きがアニドウをさらなる新たな事態へと向かわせるのですが、それはもう少し先のことです。

その77へつづく

(10.02.26)