β運動の岸辺で[片渕須直]

第3回 カシラとマイマイの夏

 9月も半ばに入って、さすがに涼しくなって来た。2009年の夏は過ぎ去ってしまった。まったく落ち着かない夏だった。
 去年の暮、いったん「仮完成」していたはずの『マイマイ新子と千年の魔法』にはまだエンディングがついていなかった。エンディングに歌をつけたいというレコード会社でもあるスポンサー側と、それはぜひつけたいけど歌のバックが黒味にクレジットのロールアップではだめだ、それではせっかく歌をつけてもお客の多くが席を立って帰ってしまう、という監督の立場。さらに、すでに予算超過しているという現実がせめぎ合ったままになっていた。
 こうした状況に整理がついてきたのが、今年の7月中旬。エンディングの曲バックに画をつけてよい、という話にようやくまとまって、月末には楽曲提供側と打合せするという段取りにまでたどり着いた。そのエンディング曲打合せを2日前に控えた7月22日、真昼間というのにマッドハウスの机で転寝していると、机の向こう側で噂話している声が聞こえた。
 「誰か亡くなったの?」
と、聞くと、
 「カナダさんらしいです」
という。それ以上はわからない。
 アニドウのなみきたかしさんに確かめるのが一番、とメールを送ってみた。
 「カシラのこと、風の便りにうかがいました。詳しいことなどわかりましたら、お知らせいただければ幸いです」
 デマを広げたら申し訳ない、という思いがあったので、それ以上は書けなかった。
 25分後に戻ってきた返事は、
 「ええ? なにかな。調べます」
 という。金田さんの友人であるなみきさんもまだ知らなかったのだ。
 なみきさんが、金田さんのお弟子さんである越智一裕さんに電話してみたら、越智さんは泣いておられたという。友永和秀さんはまだご存知でなかった。
 葬儀は密葬で行うという方針も伝わってきていたが、こちらとしてここはひとつ、なみきさんに仕切ってもらって我々としてのお別れの会を開いてほしい、という意向を抱きつつもあった。
 最初になみきさんに連絡してから2時間半後には、お別れの会に関して僕がマッドハウス側の連絡役みたいな立場につきつつあった。マッドハウスにはなんといっても金田さんの師匠である野田卓雄さんがおられるし、縁深いりんたろうさんもおられる。かなめの丸山正雄プロデューサーは海外出張中なので、メールでやり取りしなくてはならない。
 翌日にはなみきさんのオープロとマッドハウスがある荻窪で、場所を変えつつ連続的に作戦会議が行われた。なみきさん、野田さん、越智さん、日本アニメーター・演出家協会の世話人であり金田さんの個人的な友人でもあった高林久弥さん、それになぜか不肖片渕。自分としては学生時代に戻ってなみきさんの手下に徹するつもり以上ではなかったのだったが。
 そうこうしているうちに、『マイマイ』のエンディング曲の打ち合わせが始まってしまい、エンディング欠の暫定版『マイマイ』を抱えて、スイス・ロカルノまで出かけなければならなくなってしまったりもした。泣きたいことに、自分が提案したタイトルバックの映像は、ロカルノから帰国後4、5日で完成させなければならないスケジュールになっていた。この機会に本編の全編に渡ってダビングもやり直したいところだったが、自分がダビングに赴くためにはエンディング映像をさらに早く3日で完成させなければならないのだった。
 何やかんやの仕事が片づいたのが8月30日夕方。19時からは荻窪で『金田伊功を送る会』が始まるというその日まで、結局自分は何もすることができずにいた。『送る会』はしめやかというよりは和やかで、とてもよい感じにでき上がっていた。
 エンディングに画と歌がつき、全編の音響をやり直した『マイマイ新子と千年の魔法』が完成初号に漕ぎ着けたのが9月2日。
 マイマイ新子は原作者・高樹のぶ子さん自身がモデルだったので、物語の舞台である昭和30年当時に実際に住んでいた家があったあたり、というのも存在する。今現在、その場所に住んでおられるHさんという方と連絡を試みる必要が生じた。Hさんは、5月に防府で行った『マイマイ』暫定版の試写を見ておられ、映画を熱心に応援してくださってもいた。
 Hさんが書いておられることを見て、頭の中が「?」でいっぱいになってしまった。なぜか、山口県防府市に住んでおられるアニメーション関係者でもなんでもないHさんが、「8月30日にはあまりに悲しくて『送る会』に行けなかった」とおっしゃるのである。
 なぜ・マイマイ新子の家の場所に住んでおられる方が・金田伊功さんを送る会に?
 Hさんは小学生時代の金田さんと同級生だったのだという。
 こんな偶然があるのだろうか。
 あわてて金田さんの略歴を見ると、たしかに山口県に住んでいたこともあるらしい。なみきさんに聞くと「そういえば防府とかいってたな」という。
 Hさんは金田さんと大人になってもずっとつきあいがあり、『バース』を作ってるスタジオを訪れたりもされていたらしい。
 こんなことがあるのだろうか。
 ものすごい偶然だ。
 そう思っていた。
 つい先ごろ、Hさんのお話の続きを知った。
 「金田君は松崎小学校3年3組にいました」
 それはまさに我々の映画の主人公が通っていたあの教室ではないか。
 これから先、『マイマイ新子と千年の魔法』を見ることになる方には、少しだけ心に留めていただけるとよいのかもしれない。新子や貴伊子が机を並べるあの同じ教室に、5年後には8歳の金田伊功少年が腰掛けていたのだということを。


 金田さんに映画を見てもらえなかったのが残念でなりません。

第4回へつづく

●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
http://www.mai-mai.jp

(09.09.24)