β運動の岸辺で[片渕須直]

第7回 ホームズ試験

 1980年のあの当時、映画学科映像コースの池田ゼミ2年生は、男3、女4の7人くらいだったはずだ。学外から人を呼ぶということで、他学年にも声をかけて大きめの教室を用意していいたのだが、いざ宮崎さんが来る当日になってみると、その大き目の教室が結構満席になってしまっていた。どうも、どこかで話が広まったらしくて学外からも人が入ってきていたようだった。
 その存在を知るようになって2年目にしてご本人にはじめてお目にかかった宮崎さんは、まだ30代だったはずで、ワイシャツにセーターという姿は学生とあまり変らず、なんだか我々の親戚のお兄さんが来たみたいな感じだった。まあ、そういうことでいえば、月岡さんも守衛から学生と間違えられて学内の駐車場に停めるのを拒まれるという、あの世代の方がそういう年齢感の頃だった。
 宮崎さんはまだ人前に出慣れてなかったようで、映写スクリーン前でチェリーに百円ライターで火をつけようとして、禁煙の表示が出ていることに気づいて慌てて黒板で揉み消し、またいつの間にか煙草に火をつけて吸っていたり、ひじょうに緊張しておられた。テレコムのレイアウト用紙に話すべきことをメモして持参されていて、その中身は、「津和野は旅行案内の写真に紹介されたとおりの風景ではない。写真とは適宜フレームで切り取ったものだ」というような話だった。
 その場はいったん場をお開きにして、ゼミの2、3年生だけでゼミ室に宮崎さんを招いて延長戦も行った。今度は「スター・ウォーズの主人公側の戦闘機が尖っているのは、フロイト的な理由があって……」という話だった。こちらも調子の乗って、池田・宮崎揃い踏みという前で「『どうぶつ宝島』の海はなんで黄緑色にしたんですか?」などと質問してしまい、お2人顔を見合わせて苦笑、などという一幕もあった。『どうぶつ宝島』では美術の土田さんが夕日の海の色を茶色に描いてきて、故郷の新潟の海はこんななのか、と冗談をいった、などという話もされた。

 本来、池田さんのプランでは宮崎さんを先頭に、往時の東映動画のベテランたちを連続的に招いて話をうかがう、ということになっていたはずだったが、どういうわけか、初弾の宮崎さんが終わるとそれっきりになってしまった。翌年の冬には、「タイタンの戦い」の宣伝のために来日したレイ・ハリーハウゼン氏を同じ大き目の教室に招いたりはしたのだが。
 要するに、なにげない学生生活がそれからも続いたわけで、なにげないといっても自分にとってのそれは、今は安達瑶と名乗って小説家になっている同級生が監督する映画のために、普通車をタクシーに見せかけるべく簡易改造したり、SF的な核シェルターだとかマザー・コンピューターだとかが要るから、といわれ、作り物作ったり大道具装飾をやったりすることだったりした。埃臭い荷重の上、熱いライトの横は居心地良かった。安達ことYはその後、市川崑さんの助監督になった。

 ほぼ1年くらい経った1981年9月だったと思うのだが、自宅にまで池田さんから電話がかかってきた。
 「宮崎が新作のTVシリーズを始めるのにシナリオライターを必要としてるというのだけど、プロのライターじゃないまったくの新人に書かせたい、と。去年、うちの学校に来たときシナリオを勉強してる学生もいると知って帰ったので、何人かテストしたいといってる。アナタ、シナリオ書いたことある?」
 ありません、と、正直に応えた。
 ふだんから三つ揃いの背広を着て歩く鎌倉族紳士の池田さんは、実は海千山千だった。
 「それは書いたことあることにしなさい」
 はあ。
 「いいから。それでシナリオ・コースの学生に交ざって行きなさい。今まで書いたシナリオを見せろといわれたら、学校に提出済みなので手元にありません、と言い張ればいいから」
 はあ。で、それはどんな作品なのでしょう?
 「何か、登場人物が全部犬でシャーロック・ホームズをやる、とかいってたな」
 それは……『どうぶつ宝島』みたいなことでしょうか?
 「それはわからない。詳しいことは先方で聞きなさい」
 『カリオストロの城』まで作った人が『どうぶつ宝島』に戻るのか? とにかく企画自体が意味不明だった。
 ということで、脚本コースの学生4、5人に便乗して高円寺のテレコムを訪れることになった。一緒に行くのは全然知らない上級生ばかりだった。
 『さらば愛しきルパンよ』に登場していた永田ビルに入ると、畳敷きの部屋に通され、こういうものをやろうとしているわけなのだけど、と宮崎さんと作画監督諸氏の描いたストーリーボードを貼ったスクラップブック2冊を見せられた。しかし、脚本コースの学生たちが持参したシナリオは普通の人間ドラマみたいなものばかりなので、どう判断したらよいのかわからない、ともいわれた。
 「2週間くらい時間上げるから、原稿用紙10枚くらいで各自ストーリーを作ってきてください。それで判断します」
 結局、そういうことになった。
 自作の脚本を持参できていないこちらとしては、まあ、願ったり適ったりの展開ではあった。

 「合格者はテレコム社内に新設される文芸部に採用します」
 といわれて2週間くらいの猶予をもらったのだが、何を書くべきか考えなくてはならない。SFとか読むようになる前はミステリーも結構読んでいて、というより、家の本棚に親の本が並んでいて、シャーロック・ホームズものはそれなりに読んでいた。うーん、何がいいのだろう。自分の印象で記憶に残っているお話は……。
 「吸血鬼」。これは最初に読んだシャーロック・ホームズ。小学生の頃、母親が図書館からポプラ社の子ども向きの版を借りてきてくれて、読書感想文を書いた記憶あり。だけど、いきなり吸血鬼じゃなあ。変化球すぎ。
 「踊る人形の秘密」。これはおもしろい。絵暗号はおもしろいけど、どうやって話にするんだ?
 「六つのナポレオン」。これもおもしろい。石膏のナポレオン像を次々にぶち壊してゆく話だが、うちにも子どもの頃、石膏製の「考える人」があった。ロダンが造形した考える人像の顔立ちは、どこかうちの祖父(あの映画館を経営していた)に似ているような気がしていたのだが、祖父が死去してしばらくしてから「考える人」も棚から落ちて砕け散った。そんなことが記憶に小さな糸を残している。
 これでいくか。だけど、石膏像はなしね。クマのぬいぐるみにしよう。中に黒真珠が隠してあることを知らずに、女の子が持ち歩いている……。
 クマの名前は「ウィニー」に即決してしまった。ウィニー・ザ・プーではない。時代逆転的なことに、その名はウィンストン・チャーチルに由来している。「青い紅玉」のポリイのぬいぐるみは、ハインラインの短編SF「大当りの年」に登場するクマのぬいぐるみから名前をとったのだった。

第8回へつづく

●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
http://www.mai-mai.jp

(09.10.19)