β運動の岸辺で[片渕須直]

第10回 ひみつ基地めいて、切なく、切実に

 自分の中には、たしかに『漫画映画』的な何かあがるように思う。だから『ホームズ』みたいなものをいきなり要求されてとっさにアプローチできてしまったのだろうとも思う。
 じゃあその漫画映画ってなんなのさ、という問いかけにはじっくり答えを考えなくてはならない。子どものために作るアニメーション映画のすべてが『漫画映画』というわけではない。もっとこう……たとえばあれがそれに似ている、というものをあげるとするなら、子どもの頃ジャングルジムで鬼ごっこしたことだ。フィールドアスレチックなんかも近いかもしれない。何か「メカニカルな空間」が絡んでいるような気がする。仕掛け満載の迷路? そんなところにワクワクする子どもっぽい感覚。
 このあいだのアニメージュオリジナル誌の取材で、唐突に「自分にとっての三大映画をあげてください」と聞かれて、「大脱走」「七人の侍」「ミツバチのささやき」と答えてしまったのだが、「大脱走」の捕虜収容所も、「七人の侍」の防塞を張り巡らした村も、仕掛け満載のギミック空間であることに違いがない。
 でもって、自分としてそれをあくまで「子どもっぽい感覚」として受け止めている。ああ、そうそう、「ひみつ基地」的な感じ。「缶けり」のスリルとワクワク感みたいな感じ。しかも、どんなことが起こってもだれも死なないし、傷を負わないのだ。

 『アリーテ姫』を見たり、『マイマイ新子と千年の魔法』を見て評する人から、「漫画映画的な方向に進むのかと思ってたら、また今度もミヤザキ的ではなかったですね」
 などとたびたびいわれてしまう。いや、そうではなく、あの日「四つの署名」のコンテを目にしてしまって「こうしたものを自分は携えていない」と思った自分自身の欠落感を埋めるための何かが行われているのだと思っていただければよいのかもしれない。それは宮崎さんの後を追おうなどということではなく、ただただ、自分がそのとき感じた「自分に欠けているもの」を取り戻そうとすることとして。「四つの署名」の少年と少女のことはたびたび意識していたような気がする。

 先日、日本工学院で特別講義をするという話が降って湧き、「生徒たちの現在」に訴える何かを話してほしい、ということだったので、思い立って、自分の学生時代のものである「青い紅玉」と、それから28年後の『マイマイ新子と千年の魔法』を並べて映写してみてしまった。
 『マイマイ』の中にはたしかに「青い紅玉」の何かが生き残っている、と感じられて、我ながらおもしろかった。それは隠れ家じみたひみつ基地めいた雰囲気であったり、あるいは、これから友となろうという人をその場所でもてなすとき、ひみつめいた食べ物が介在する、そんなことであったりする。
 そうした『マイマイ新子と千年の魔法』なのだが、この映画を作るにあたって原作者・高樹のぶ子さんとはじめてお目にかかったとき、
 「どんなふうに作っていただいてもいいけど、これだけは大事にしてほしいのは、『マイマイ新子』とは『切なさ』の物語であること」
 といわれた。
 それはもとよりそのつもりで臨んでおりますので、と、応えた自分がいる。

第11回へつづく

●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
http://www.mai-mai.jp

(09.11.09)