第12回 明日の約束を返せ
ホームズたちの色彩設計が「青い紅玉」から「海底の財宝」のあいだで変化していることに気づいた人は多いと思う。実際には、「海底の財宝」の途中で変わった。「海底の財宝」には2種類の異なる色調のセルが存在した。
『名探偵ホームズ』の当時、親会社・東京ムービー新社(TMS)は日本国内向けTVシリーズ製作に困難を感じていた。そこで、欧州との合作をコープロと称して始めていたが、さらに大きなバジェットで仕事するには、米国メジャー市場へ進出することだという思惑があった。大学3年生の演出助手にも、そんな感じの仕掛けになってるだろうことは、教えられていた。
『ホームズ』の場合は、共同製作のイタリアRAI1がヨーロッパマーケットを受け持ち、日本側TMSが米国マーケットを受け持つ、という分担がされていた。1本あたり8000枚、9000枚といった作画枚数を費やし、相当な製作費をかけようとも、アメリカのテレビ3大ネットワークへの売り込みが成功すれば、回収は可能、そう思われていたのだった。
ちょっとしたひっかかりになっていたのは、イタリアからの製作費送金が遅れていたことだ。このため、対イタリア向けには「製作は送金後に行う。今現在は未着手のまま」という情報が意図的に流されていた。
そうした中で、RAI1のプロデューサー・スカファ氏と「犬の『名探偵ホームズ』」の原案者であるマルコ・パゴット氏が来日した。宮崎さんは彼らとの会議に出ていたが、帰ってくるとボヤいた。
「会議中の落書きで、ホームズがかぶったディア・ストーカー(鹿撃ち帽)のてっぺんに、プロペラとか描いてやがるんだ。そういうアメリカのテレビまんがみたいなナンセンスなのが連中のそもそもの狙いだったんだ」
いくつか注文も出されてしまったようだった。
いわく、
「スマイリーが気持ち悪すぎる。別のキャラクターに変更してほしい」
「セルに塗った色彩設計『案』の色調は薄暗すぎる。特にワトソンの顔が暗すぎて、表情が読み取りづらい」
等々。
色彩設計については、
「ホームズを始め全面的に明度を上げる」
「ワトソンはもはや黒犬とは思わないで、BGm(セル絵の具色番)系を肌色にする」
などと対策が立てられはしたが、問題はモリアティーの子分・スマイリーの去就だった。
「スマイリーは引っ込めて、新たにスマイリーのイトコが来ることにしようか」
などといいつつも、愛すべき性格の持ち主スマイリーへの愛情は、スタッフ間にかなり広まっていた。
「じゃあ、キャラクターデザインをいじくって、ひょろひょろしてるのを少し抑える方針で。のっぺりしてる顔の下半分を、犬らしく突き出させて」
近藤喜文さんは、やり直しのキャラクターデザインを試し描きした。
こうしたイタリア対策は、すでにフィルムまで完成済の「小さな依頼人」「青い紅玉」に対しては行わず、色彩設計の変更のみ、撮影開始直前の「海底の財宝」から実施する。スマイリーの変更は、新規作画分にあたるエピソードから、という感じで方針が落ち着いた。
かなりの枚数塗ってあった旧色の「海底の財宝」セルは破棄するしかない。
この「海底の財宝」では、枚数削減も色々といわれるようになってきた。原画マンを畳部屋に集めては、「枚数を減らそう」「無駄な枚数の使い方はしないこと」などと宮崎さんが前に立って述べたりもした。大分ストレスも溜まってきた感じがあった。
記憶がおぼろだが、あるいは、「ミセスハドソン人質事件」「ドーバーの白い崖」はこの辺のあおりをくらって、一時作業が中止されてしまっていたような気もする。
1982年の初夏に宮崎さんたちと一行で屋久島へ旅行したのは、仕事がなくなって暇になっていたからではなかったか。
第二屋久島丸の船上、宮崎さんは片山一良をつかまえては、
「片山くん。キミ、ちゃんとチケット持ってる? これないとおろしてもらえないんだよ」などとといって、「えっ? ええっ?」とあわててポケットを探る片山氏を眺めては、
「わはは、嘘だよー。こんなのなくっても降りられるに決まってるじゃないか」
と、からかっていた。そのくせ、実際に下船する段になって、本当に乗船券がないと降りられないことがわかり、宮崎さんは船員相手に真っ赤になって怒っていた。その夜泊まった島の国民宿舎が気に入らないといっては、急に「宿を変えよう」といいだしたり、やはり、ストレスがだいぶ溜まりまくっていたようだった。
屋久島の2番目の宿はひっそりしていて居心地よく、糊が効きすぎてバリバリの寝巻きとシーツも旅の風情だった。屋久杉まで歩いたのも心地よく、山中で雨に打たれたのもよい思い出だった。その夜、布団を並べて寝ていると、電気の消えた部屋の中で宮崎さんはつぶやいた。
「なあ」
「はい」
「ああいう線路でハドソンさんの車を走らせてみたかったんだよな」
と、宮崎さんは、昼間たどった屋久島山中の森林鉄道の線路を思い出しては、夢を見るように語っていた。そうだ、やはり「ミセスハドソン人質事件」「ドーバーの白い崖」はコンテ前に風前の灯になっていたのだと思う。
そんな日々が過ぎて、この2本の絵コンテ以降の作業は再開されたが、作画枚数の低減化が至上命題のようにいわれるようになっていた。コンテも枚数のかからない方向に工夫されていた。どうやら『ホームズ』に関する経済事情は、夢も抱き得ないところにきてしまっていたようだった。アメリカ三大ネットワークは日本の製作会社の作品などにはハナもひっかけないらしい、という現実が認識されはじめていた。
夏が近づき、暑くなってくると、宮崎さんは窓の外の庇の張り出しの上(ベランダなどではない)にゴザを敷いて、ブタの蚊取り線香とともに寝ころんで涼みながら、「白銀号事件」のコンテを切ったり、富沢さんが切った「バスカビル家の犬」のコンテ修正を行ったりしていた。
「バスカビル家の犬」の方は、近藤さんと打ち合わせが行われ、キャラクターデザインにも手がつけられつつあった。
一方の「白銀号事件」では、ハドソンさんがオートバイにまたがってまたまた大暴走する運びになっていたが、そもそもハドソンさんが乗り物で暴走するのは、閉塞化しつつある『ホームズ』の気分のむしゃくしゃ感に対する宮崎さんの鬱屈が生み出しているようなところもあった。「その辺の暴走感、もう少し抑えたらどうですか」的な意見も直接的に向けられていたらしく、宮崎さんは帰り際に制作のドアを開けては、
「決めた! やっぱりハドソンさんはバイクに乗せるからな!」
と、大声で宣言したりしていた。
そういえば、宮崎さん自身、この頃、オフロード・バイクなんかに乗っていた。ベランダで仕事するのも同じ。ともすればくさくさする気分を変えたかったのかもしれない。家に帰ってからの『風の谷のナウシカ』執筆も、『カリオストロの城』から『ホームズ』のあいだに作り続けた新企画が全然テーブルに上げられないことへの、心理的逃げ道みたいなところがあったし、ようやく動き出したその『ホームズ』が条件的にどんどん窮屈になっていくのでは、ますます仕方がない。
とある朝、出勤すると、奇妙な領収書が貼り出してあった。それ自体は高円寺ガード下のいつもの宴会場「長兵衛」のものだったから、特段意外なものではなかったが、書き込まれた金額が中途半端に大きかった。どうもヤケクソで飲み散らかした結果の金額のようだった。宮崎さんも作画監督クラスもいつもの時間に出勤してこなかった。
とうとう『ホームズ』製作中止が決まってしまったのだった。
バイクに乗ったハドソンさんは、ついに見ることができないまま終わってしまった。
これは最初の挫折の話だ。『マイマイ新子と千年の魔法』公開の週だというのに、こんな話を書いている自分もどうかと思う。小黒編集長からは「『マイマイ』の宣伝もしてくださってかまいません」といってもらって、この連載をもらっているというのに。
そうだ。だがこの自分の新作映画にこめた気分と、あの頃の現実の記憶は、「切実さと切なさと」という点で、たしかに共通してはいないか。
大人の世界の事情はいつも唐突に、理不尽な形で押し寄せてくる。それでも押しつぶされまいと新子が叫ぶ、
「うちらの明日の約束を、返せ!」
とは、あの頃の自分たちの胸にあった言葉ではなかったか。
このとき以降、自分は同じような挫折を何度も味わうことになる。
『アリーテ姫』『マイマイ新子と千年の魔法』とは、何度となくやってくるそれに対する、繰り返し放つ自分なりの返答なのだと思っている。この2本では、挫折からの快復の道筋を、自分なりに描こうと懸命になった。
映画のスクリーンの中の出来事には、楽しかるべき快楽原則の発露しか望まない、という人もあるだろう。だが、そういう方にさえ、「『マイマイ新子と千年の魔法』という映画は、それぞれの人生に引き寄せて、心で感じてもらいたい」という声があるとき、それは上で述べたような意味なのかもしれない、と心に留めておいていただけるとありがたい。
第13回へつづく
●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
http://www.mai-mai.jp
(09.11.24)