第17回 『セロ弾きのゴーシュ』
学生だった間にはアニドウのイベントの手伝いもいろいろとやった。
1981年夏、第7回プライベート・アニメーション・フェスティバル(PAF7)ではスタッフに組み入れられて映写機を回していたし、その時上映した中には同い年の大阪の学生・庵野秀明さんの『じょうぶなタイヤ』などもあったことを覚えている。
同じ夏にディズニーの超ベテラン・アニメーターであるフランク・トーマス、オーリー・ジョンストン両氏の講演会があるというので出かけたら、エレベーターを降りたところでアニドウ会長のなみきたかしさんに捕まり、「片渕君にTシャツ上げて!」と周囲に声が飛んだかと思うと、Tシャツひとつ手渡されていきなり映写室に押し込められた。このときはちゃんとお金を払って客席に座るつもりだったのに、映写係として小さな映写窓からイベントを見物することになった。
1982年1月といえばテレコムの社内に『名探偵ホームズ』の演出助手として入り始めたすぐの頃だったのだが、なみきさんが宣伝プロデューサーを務めるオープロ製作・高畑勲監督による『セロ弾きのゴーシュ』の完成披露上映に狩り出され、人形アニメの岡田ひろみさんとふたりで会場前に並ぶ観客の列整理をすることになった。
オープロダクションの自主製作作品『セロ弾きのゴーシュ』の上映会場は、当時まだ御茶ノ水にあった日仏会館だったが、開場よりかなり早い時間から数え切れぬばかりの観客が押し寄せ、並んでもらうだけではもう駄目で、自分たちで紙を切りマジックで整理券を作って発行したりしなければ整理がつかなくなっていた。観客の列は300メートル以上になり、ほとんど隣の駅である水道橋の手前、東京デザイナー学院あたりにまで達してしまった。
「列の最後尾はこちらです!」
などと喚き続けて、声もほんとうに枯れてしまった。
そんな中、自分が所属する映画学科の戸川直樹教授がふらりと見えられ、「席はありますか?」と問われたので、ありませんと正直に答えると、長身の戸川さんはくるりと反転された。
あわただしく歩き回るなみきさんとすれ違ったので、そのことをいうと、「戸川さんは大藤賞の審査員だぞ!」という。
戸川さんを呼び止めるべく走って、結局、高畑さんがご家族のため押さえておられた関係者席をひとつ空けてもらってなんとか押し込んだ。
このとき、写真ではない実物の高畑勲さんを初めて見た。
ひと段落して、客席後方から眺めた『セロ弾きのゴーシュ』は素晴らしく、TVアニメにはない躍動感に満ちていた。撮影レンズの切れもよく、フィルム時代を通じてあんなにクリアな画面をほかで見たことがない。
上映終了後には、観客へのプレゼントとして、セルを配った。次々と売れてゆく販売用のポスターを丸める忙しい仕事を、美術の椋尾篁さんや、作画監督の才田俊次さんたちが自らの手を忙しく使ってされていた。
最近になって自分の作品である『マイマイ新子と千年の魔法』が、ラピュタ阿佐ヶ谷で8夜連続レイト上映されることになり、整理券が発行されて午前中には満席となってしまう中、毎夜舞台挨拶に出かけたり、あるいは、観客用プレゼントとして自分たちでアートカードなるものを刷り出したり、上映時間中のロビーでプロデューサーたちがそれをクリアファイルに詰める作業を行ったり、そうしたすべてが『セロ弾きのゴーシュ』の頃に直結されて感じられてならなかった。
あまつさえ、高畑勲さんが『マイマイ新子と千年の魔法』を見ようとふらりとチケット売り場の前に立たれ、しかしすでに売り切れとなっていたことを知って帰ろうとされるのを、たまたまその場に居合わせたなみきたかしさんが自分の券を譲ってくださり、なんだかこれまた『ゴーシュ』のときの戸川直樹さんのことを思い出して思わぬ因縁を感じたりもした。
『マイマイ新子』上映後、そのまま帰るかと思われた高畑さんが、急にこちらへ向きを変えられ、無言でこちらの肩を3回叩いてこられた。実のところ、これまで高畑さんに少しでも褒め言葉らしいことをもらったのは、『NEMO』の演出助手時代に1度しかなく、それも「ちょっとわかりかけてきましたね」というごく控えめなものだった。この夜、肩を叩かれたのも、「ちょっとだけわかりかけてきたな。でも、ちょっとだけだぞ」といわれたかのようで、ああ、でもこれでようやく2度目だな、とありがたく心に沁みた。高畑さんはとても厳しい教師であると思う。
1月に『セロ弾きのゴーシュ』の上映スタッフを務めたりした1982年は、後半になると混迷をきたしていた。宮崎駿さんは『NEMO』の新エグゼクティブ・プロデューサーとして目の前に現れたゲーリー・カーツ氏の方針に困惑し、高畑勲さんもやがてこのチームに参加することが予告されていた。
それだけではなかった。自分がTシャツをいきなり手渡されて映写室に押し込められたあのフランク・トーマス、オーリー・ジョンストン両氏の講演会。あのとき映写窓から見おろしたホールで、東京ムービー新社の藤岡豊社長がつかつかとなみきさんに近づき、何か声をかけていたの見ていた。あのとき、藤岡さんはフランク・トーマス、オーリー・ジョンストン両氏にコンタクトを取ろうとしていたのだった。『NEMO』の製作にほかならぬウォルト・ディズニー・スタジオの助力を求めるべく。アメリカからも『NEMO』のためにスタッフが派遣されてくることになる。
第18回へつづく
●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
http://www.mai-mai.jp
(09.12.28)