β運動の岸辺で[片渕須直]

第18回 捨てられた骨法

 ディズニーにはナイン・オールドメンと呼ばれる、ほとんど創業以来ともいうべき超ベテランのディレクティング・アニメーターたちがおり、彼らは次第に隠退していったが、フランク・トーマスとオーリー・ジョンストンは1977年完成の『レスキュアーズ』(邦題『ビアンカの大冒険』)まで現場で働きつづけ、以降、引退して現役を退いていた。たまたま親族の結婚式に列席するため来日したふたりに、東京での講演が依頼され、その講演会場で彼らとのコンタクトを取りつけたのが、『NEMO』のエグゼクティブ・プロデューサーであり、東京ムービー新社社長の藤岡豊さんだった。藤岡さんが、フランクとオーリーに会わせろ、とアニドウのなみき会長に話しかけていたのを、偶然、講演会場の映写室の窓から見ていたことは先に記した。

 藤岡さんは、『NEMO』をハリウッドとの合作映画とし、世界配給に持ち込むことを望んでいた。そのためには、いわゆるディズニー流の「フル・アニメーション」(この言葉は鉤括弧つきで述べておく。理由はこの先に詳述する)で作画されなければならない。そう考えた藤岡さんは、当のディズニーの作画スタッフに、テレコム作画陣への指導を依頼したのだった。
 そうした結果として、高畑勲、宮崎駿、大塚康生以下、テレコムの演出家、作画監督、美術監督、ベテラン原画マンを集団で渡米させる、という話が浮上した。テレコムで新規採用された1期生からもごく少数がこれに含められ、2期生以下の世代は完全に除外されていた。
 渡米予定者への説明会が、例の畳部屋で行われたが、「片渕も来い」と、制作からいわれた。
 「別にペーペーのお前をアメリカへ連れてゆくわけじゃないけど、宮さんが打ち合わせだけでも聞かせてやれ、どうしても、というもんだから」
 どうも、渡米打ち合わせ会に新米の片渕を混ぜるかどうかだけでも、事前に宮崎さんと制作で議論が交わされていたらしく、いささかうんざりするような面倒くさいムードがあった。自分自身にとって、『NEMO』は面倒くさくて、やりがいを感じられない仕事であると、この時点からすでに感じられていた。

 渡米スタッフが旅立ち、残った連中は適当に東京ムービーの下請け仕事の作画なんかをやっていたが、演出助手の仕事まであるわけなどなく、日がなブラブラするだけの気合いの抜けた日々になってしまった。
 突然にぎやかさが舞い戻ってきたのは、渡米組が帰ってきたからだ。
 どうやら富沢さんは、ヨセミテ森林公園で一行を乗せた観光バスに乗り遅れて、一時迷子になったらしく、「E.T.」というあだ名を頂戴したとかいう話だった。
 ヨセミテ森林公園? 観光してきたの?
 それどころか、ヘリコプターに乗って金門橋をくぐった、などという土産話もあった。
 「なんだか豪遊しちゃったんだよな。これでちゃんとした映画作らなかったら、『映画につぎ込むべき制作費でスタッフ豪遊』とかいわれちゃうとこだよな」
 と、宮崎さんも笑っていた。
 抗いがたい現実の中で、この先、まさにそんなふうになっていってしまうのだが。

 あるとき、宮崎さんが、「こういうものをゲーリー・カーツに出そうと思う」といって、自分でしたためた書類を見せてくれた。
 こうした娯楽映画はどういう要素をちりばめるべきか。
 それらはどんな順序で構成されてゆくべきか。
 「健全なる主人公」
 「主人公が守るべきヒロイン」
 「解かなければならない謎」
 「守るにあたいする人々が住む村、国」
 「敵味方が争奪戦を繰り広げる『宝』の存在」
 「事態を混乱させる盗賊的存在」
 言葉は正確ではないが、等々の要素が望ましい娯楽映画には必要であり、それはこれこれの順序で提示されてゆくべきだ。
 そんなことが書かれていた。
 これならばよく知っている。わざわざ見せてもらわなくとも知っている。
 それは、まさに自分自身、『カリオストロの城』『長靴をはいた猫』『どうぶつ宝島』『未来少年コナン』などを見比べる中から帰納法的に導き出していたひとつの定式、それを携えて取りかかったから『青い紅玉』がなんとかなることもできたというそれと、きわめて近いものだった。

 だが、そうしたものを元にカーツに方針の修正を求めることはできなかった。
 「ミヤザキの提案するストーリーは『リトル・ニモ』である必要がない。『リトル・ジョージ』だってなんだってよいものではないか」
 それはウィンザー・マッケイの原作「リトル・ニモ・イン・スランバーランド」と宮崎映画案との関係を端的に示していた。宮崎さんが作りたいのは、オリジナルなモチーフを数多く投入することで塗り替えたオリジナルなストーリーなのであり、原作を原作とする以上、ここに反駁の余地は見つからない。
 ただいえるのは、ウィンザー・マッケイの原作が普通に解釈可能なほどのストーリー然とした体を持っておらず、レイ・ブラッドベリが書いてきたスクリプトもやはりそこから大きな逸脱を感じさせるものであったことだ。これでは割り切れない。

 鳩小屋の鳩たちといっしょに立つ屋根の上でトランペットを吹く、アメリカの少年ニモ。
 その屋根の上に飛行船が流れ着く。乗っているのは盗賊フリップ・フラップ。
 飛行船でたどり着くのは、空中に浮かぶ王国スランバーランド。
 そこは荒れ果て、使い古された無数のロボットたちが捨てられている。
 王国の姫君プリンセス・ナウシカ。
 そうしたスクラップブックのイメージボードたちは、カーツへの提出書類が語る「骨法」と一体になって、物語を奏でるはずだった。
 そうしたものをイメージしてきた数年間を無に帰させるのは容易い。実に容易いのである。この先、もう少し作品作りの中核的位置に立場を変えた自分自身も、何度も同じような苦さを味わうことになる道だ。

第19回へつづく

●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
http://www.mai-mai.jp

(10.01.18)