β運動の岸辺で[片渕須直]

第20回 ひっかしいだ新スタジオ

 仕事場が引っ越した先、中野区新井薬師の新社屋はなんだか得体の知れない場所だった。
 美術と仕上は3階だからまだよかったが、作画と演出の入る4階は天井の真ん中が垂れ下がっていた。屋上に上ってみると、垂れ下がっているところの真上には、給水タンクがそびえていた。どうも天井の強度が給水タンクを支えられるほどないのではないか、と危ぶまれた。
 TVアンテナの配線を通すとかで、電設工事の業者が来て、
 「お仕事中すみません。壁に穴あけますので大きな音を立てます」
 という。工事の人はコンクリ用のドリルを構えると、4階の壁に突き立てたが、それがスポッと豆腐でも相手にするように貫通してしまった。
 「ありゃりゃりゃりゃ」とかいっている。
 「どうしたんですか?」
 と、のぞくと、どうもこうもない。コンクリートと思われた壁は、ペラペラのパネルだった。開いてしまった穴の中をのぞくと、内外2枚のパネルのあいだに屋上のフェンスとしか見えないものが挟まっていた。フェンスを芯にして、表と裏を2枚のパネルで挟んで、一見コンクリートと見紛う厚みの壁にしつらえてあっただけのことだった。本来鉄筋コンクリート3階建ての建物だったのだ。その三階建ての屋上に木造で無理無理作りつけたのが、われわれの入る4階だったということが知れてしまい、あらためてがっくりきた。
 永田ビルの頃は、屋上に提灯を張り巡らしてビールパーティなんかに興じたものだったが、その社有の提灯も出番がなさそうだった。こんな屋上の上に何人もの人間が立てるものではない。
 『NEMO』の準備室に当てられる予定の部屋は4階西側にあったが、ここは平面プランが台形である上に、北側の壁が手前に向かって斜めに傾いていた。建蔽率とか隣接家屋の日照権とか、いろいろな要素の隙を縫って、ともかく作りました、という感じのいびつな部屋だった。
 3階の仕上に水場が必要ということで、流しの配管工事をやったら、業者がガス管を破壊してしまい、総員退避命令が出た。近所の定食屋でハンバーグ定食を頼んだら、レトルトのマルシン・ハンバーグらしきものが出てきた。
 士気喪失の源というか、愚痴にはことかかない環境だった。それもまた楽しからずや、というには、あまりにも前途の見通しが不透明だった。
 この当時、『NEMO』の予算は公称28億と聞かされており、黒澤明の『乱』よりも大きかった。大丈夫なんだろうか、と思えた。

 高畑さんには『じゃりン子チエ』TVシリーズのチーフ・ディレクターとしての立場があり、東京ムービーに机を置いていたが、テレコムのほうに顔を出す時間が順次増やされていった。当然、『NEMO』の準備をするわけだが、まず、レイ・ブラッドベリ原案をどう料理するかという監督としての案を、エグゼクティブ・プロデューサーであるゲーリー・カーツ氏に提出しなければならない。このプランニングを行うにあたり、ストーリー・ミーティングというか、ブレーンストーミングを行うことになり、そこへ送別会で宮崎さんにハッパかけられてしまった若いスタッフから、自分たちも加えてほしい、という声が出た。
 「何人来るのも構わない。ただ、これは映画のためにやるものなのであって、ことさらに若い人を育成するためやるのじゃないから、話についてこられないからって、待ってたりはしない。それでもかまわないのなら」
 高畑さんはそういう態度をとった。
 場所は、まだ片づけられる前の2階映写室予定地だったと思う。まわりに段ボール箱が山になっている隙間の空き地にテーブルとイスをしつらえた。
 制作からは、「お前は記録係をやれ。発言を全部ノートにとるのに集中しろ。自分からは発言するな」などといわれた。自分自身の身の置きどころはあいかわらず日当たり悪かった。これ以上まだ人のやる気をなくさせるわけか、とも思ったが、公式には「学生アルバイト」の身分である手前、黙って従った。いや。実際、黙ってたのだったかどうか。少しくらい何かいったかもしれないが、今となっては同じことだ。

 それにしても、高畑さんの仕事には興味があった。大学1、2年でバイトして得た大枚はたいて、当時出始めたばかりの家庭用ビデオレコーダー、SONYのSLJ-7を買い込んで、『ハイジ』『母をたずねて三千里』の再放送を録画しては何度も眺めていたし(当時はビデオテープも高かったので、全4クールのシリーズ何本もはちょっとした脅威だった)、池袋・文芸坐のオールナイトで『太陽の王子』も観ていた。宮崎さんの仕事は、ある程度パターン化することで覗き込むことができるように思えていたが、高畑さんの作品には感心しつつも、どうやってでき上がっているのか底知れず、計り知れないように思われた。
 ストーリー・ミーティングに顔を出すようになると、高畑さんはジェームズ・バリの『ピーターパン』や、モーリス・センダックの『かいじゅうたちのいるところ』などを拠りどころとして『NEMO』にあたろうとしているところがあったので、早速古本屋に行って岩波少年文庫の『ピーターパン』を買い込んでみたりもした。
 その本を持っているところを、仕上の山浦浩子さんに見つけられてしまい、
 「なんだ、早くも宮さん見捨ててパクさんに走ったか。宮さん、かわいそ」
 などといわれてしまったりもした。
 走ろうにも、未知の部分が大きすぎて、よくわからなかった。

第21回へつづく

●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
http://www.mai-mai.jp

(10.02.01)